豊田市に市名変更
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1958年(昭和33年)1月29日、挙母商工会議所の杉浦定治会頭をはじめとする商工会議所同志一同による請願書「挙母市を豊田市と市名変更の件」が、市議会議長宛てに提出される。 市の財源は、あたかも、せんせんと湧出ずる泉のように、くめどもつきぬ潤沢さであるといわれているが、それとてトヨタ自動車工業株式会社の躍進と興隆あってのことで昨年四月天皇皇后両陛下を奉迎した栄光と歓喜は当市の千載に銘記するべき誇りである。(略)挙母という地名は珍しい由緒のある地名であるがこれを正しく読む人はおそらく全国には僅少であろう。(略)郵便物その他にそれぞれ豊田市何町と記載されるようになれば、視聴覚通じてトヨタ自動車工業株式会社を宣伝し、期せずして一〇〇%の宣伝効果をあげる要因となることを確信する。 — 請願書「挙母市を豊田市と市名変更の件」、1958年1月29日。 市議会はこれを受けて、同年5月17日の議会において請願書を正式に採択することを決議。長坂は直ちに地方自治法第3条第3項の規定に基づいて条例を作り、桑原幹根知事に「市の名称変更の許可申請書」を提出した。 しかし議場の外では、市名変更に対する激しい反対運動が展開された。初代市長の渡辺釟吉ら3名を発起人とする挙母愛市同志会が結成され、6月12日に同団体による市民決起大会が開かれる。会場では賛成、反対両派のヤジ、怒号が乱れ飛び、その後各地区での反対集会が9月12日までに70余回行われた。反対派は市名変更の議決(6月24日)の翌日から反対署名運動を始めたが、県は同年7月29日に変更申請を許可し、1959年(昭和35年)1月1日をもって挙母市は豊田市に市名変更した。 1960年(昭和35年)2月の市長選は、市名変更に反対した市民、青年会、婦人団体の推す元衆議院議員の本多鋼治との一騎打ちとなり、小差で再選を果たした(長坂11,843票、本多10,580票) 1963年(昭和38年)12月、大正の終わり頃から作りためていた短歌160首、随想、市政回顧などを内容とする『人生のつれづれ』を自費出版。1964年(昭和39年)2月の市長選は高齢の故をもって出馬せず、2期で引退。同年10月21日、藍綬褒章を受章。1968年(昭和43年)12月15日、豊田市名誉市民に推挙される。 1969年(昭和44年)1月5日、死去。同年、勲五等瑞宝章を受章。77歳没。
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