豊田式織機社長とは? わかりやすく解説

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豊田式織機社長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/18 14:31 UTC 版)

兼松煕」の記事における「豊田式織機社長」の解説

1929年昭和4年10月68歳兼松は、名古屋織機メーカー豊田織機株式会社(現・豊和工業)の社長に迎えられた。 豊田織機というのは、発明家豊田佐吉考案にかかる動力織機豊田織機)を製造販売するため、三井物産中心となり東京・大阪・名古屋実業家呼びかけ1907年明治40年)に設立した織機メーカーである。名古屋からは奥田正香参加し取締役となっていた。1929年4月設立以来社長務めてきた谷口死去し暫定的に取締役土屋五郎昇格していたが、事業重要性対外関係を考慮して新社長を迎えることとなったその際社長に選ばれたのが兼松である。 社長就任直後世界恐慌日本にも波及して織機受注不振となるが、1931年以降為替相場下落から輸出活発化したのに伴い受注増加転じ増産追われた。一方で輸入極端に減少し国内メーカー競争激しくなったことから、1932年昭和7年8月社内研究部設置し業務刷新図っている。こうした中で兼松高齢にもかかわらず毎日出社し事業陣頭立った豊田織機満州事変勃発後の1932年9月愛知県知事斡旋により陸軍造兵廠名古屋工廠から手榴弾受注し兵器生産にも乗り出す1936年昭和11年9月には研究部門であった金城興業社長兼任)を軍需産業転換し昭和重工株式会社とした。同年1か月わたって中国満州国視察している。 1940年昭和15年4月兼松豊田織機昭和重工業社長をともに辞任した戦後1952年昭和27年6月28日死去、満91歳没。

※この「豊田式織機社長」の解説は、「兼松煕」の解説の一部です。
「豊田式織機社長」を含む「兼松煕」の記事については、「兼松煕」の概要を参照ください。

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