豊田式織機社長
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1929年(昭和4年)10月、68歳の兼松は、名古屋の織機メーカー豊田式織機株式会社(現・豊和工業)の社長に迎えられた。 豊田式織機というのは、発明家豊田佐吉の考案にかかる動力織機(豊田式織機)を製造販売するため、三井物産が中心となり東京・大阪・名古屋の実業家に呼びかけて1907年(明治40年)に設立した織機メーカーである。名古屋からは奥田正香も参加し、取締役となっていた。1929年4月、設立以来社長を務めてきた谷口房蔵が死去し、暫定的に取締役の土屋富五郎が昇格していたが、事業の重要性と対外関係を考慮して新社長を迎えることとなった。その際社長に選ばれたのが兼松である。 社長就任直後、世界恐慌が日本にも波及して織機の受注は不振となるが、1931年以降は為替相場の下落から輸出が活発化したのに伴い受注は増加に転じ、増産に追われた。一方で輸入が極端に減少し国内メーカーの競争が激しくなったことから、1932年(昭和7年)8月社内に研究部を設置し、業務の刷新を図っている。こうした中で兼松は高齢にもかかわらず毎日出社し、事業の陣頭に立った。 豊田式織機は満州事変勃発後の1932年9月、愛知県知事の斡旋により陸軍造兵廠名古屋工廠から手榴弾を受注し、兵器生産にも乗り出す。1936年(昭和11年)9月には研究部門であった金城興業(社長を兼任)を軍需産業に転換し、昭和重工業株式会社とした。同年1か月にわたって中国や満州国を視察している。 1940年(昭和15年)4月、兼松は豊田式織機・昭和重工業社長をともに辞任した。戦後1952年(昭和27年)6月28日死去、満91歳没。
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