観光化への模索と七夕改革論の挫折
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「能代役七夕」の記事における「観光化への模索と七夕改革論の挫折」の解説
七夕の運営を巡る論点に、「観光化」が浮上するのは1952年(昭和27年)頃のことである。1952年8月29日付『北羽新報』の記事では、市当局の考え方として、七夕行事を観光を意識したものに変革させていかなければならないという主張が掲載されており、その中では運行時間が深夜となっていることを最大の問題点として、戦前からの七夕改革論の視点が踏襲されている。しかし、1955年(昭和30年)8月17日付『北羽新報』社説では、より踏み込んだ五町組への批判と、制度改革が主張された。その要旨を大きくまとめると、 七夕行事に掛かる費用の投資効果を問い、より観客を意識した商業的姿勢に転換すること 五町組が市域のうち旧能代港町の狭い範囲にとどまり、新市域の住民との温度差が大きいため、全市的な行事に転換すること これらの改革にあたっては市当局が主導すること の3点に集約される。 このドラスティックな改革論が打ち上げられた背景には、柳町の動向があった。かつて後町組を構成する一町であった柳町は、この頃後町に代わって親町の座に就きつつあり、また新柳町、柳町新道、栄町などの旧藩時代の系譜を持たない町々をも組の中に取り込むことで、新興勢力のリーダー格になっていったのである。そして、新市域の住民の声を吸い上げる役割を果たした後町組改め柳町組の主張は、とりもなおさず五町組制度の改編と、全市七夕への移行論に結びつくこととなった。こうして、昭和30年代を通じて五町組改編を焦点とする改革論が続くこととなる。1962年(昭和37年)に出された七夕改革の試案では、五町組の年番と枠組みを維持しながら、年番以外の4町組から加勢丁として1基ずつ灯籠を出す全市七夕案が出されたが、これも負担の平準化への打開策にはなりえず、立ち消えとなってしまっている。続けて1964年(昭和39年)には、七夕改革委員会が結成されて、従来の五町組を七町組に改組する改革案が出された。この改革案は、従来の五町組から最も枝町の多い柳町組を分割して(新)柳町組と(新)後町組に分けること、町内人口の最も多い畠新丁(上町組所属)を独立させて新たに畠新組を発足させること、周辺市街地を七夕組に参入させること、の3点を骨子とする。しかし、各町組の人口のアンバランスを是正することが主眼であったこの改革案も、改組の対象となる町にとっては培われてきた人間関係の分断に繋がること、戦後ようやく大丁になるターンが回ってきた畠新丁にとって、新たな組の発足はゼロからのやり直しになってしまうこと、七夕のしきたりを知らない新しい町を迎え入れるのに難色が示されたことから、この改革案も頓挫してしまった。しかし、七町組への改組案は、その後も昭和50年代後半まで度々浮上することとなる。 一方、この時期には清助町組の分裂状態が解消されるなど、新しい動きも見られた。前節で述べた通り、1898年(明治31年)の争闘を背景として、清助町組では清助町と馬喰町が長期にわたって対立状態に陥っており、清助町が当番町である大丁を務める際は、同じ町組の馬喰町に加勢を頼むことなく「親しみ丁」である柳町に依頼し、逆に馬喰町が大丁を務める際も、清助町に加勢を依頼しなかった。しかし、祭りの主体となる若者たちの間には元々過去の諍いの記憶はなく、同じく五町組によって行われる日吉神社御神幸祭(丁山祭り)では既に清助町組内での関係が正常化していた。このため役七夕でも本来の清助町組を組み直したいという機運が熟しており、1959年(昭和34年)清助町組が当番となった際(この年の大丁は御指南町であったが、規模の小さい御指南町のために清助町で七夕灯籠を用意していた)、馬喰町が加勢灯籠を出すことで和解が成ったのである。5年後に再度清助町組の当番となり、清助町が大丁を務めた際も、馬喰町から加勢灯籠が出ている。 また、清助町と「親しみ丁」関係にあった柳町でも、時宜を捉えた対応が取られた。清助町組で和解の成った翌1960年(昭和35年)7月20日、柳町組を構成する各町が集まり『柳町申合せ書』を承認、名実ともに後町組から柳町組への移行を図ると同時に、明治以来七夕組から離脱していた後町の復帰を認めた。そして費用負担の低減を図る観点から、過去の清算が行われたこの機に清助町との「親しみ丁」関係を公式に解消したのである。このように昭和30年代は、外部からの介入による七夕改革の試みが挫折する一方で、五町組内部からの変革の動きが起こり、同時に祭りが儀式化への傾斜を強めるという動きを辿っていった。また、1963年(昭和38年)から「こども七夕」の開催が始まっている。
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