観光化への模索と七夕改革論の挫折とは? わかりやすく解説

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観光化への模索と七夕改革論の挫折

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/06 18:15 UTC 版)

能代役七夕」の記事における「観光化への模索と七夕改革論の挫折」の解説

七夕運営を巡る論点に、「観光化」が浮上するのは1952年昭和27年)頃のことである。1952年8月29日付『北羽新報』の記事では、市当局考え方として、七夕行事観光意識したものに変革させていかなければならないという主張掲載されており、その中で運行時間深夜となっていることを最大問題点として、戦前からの七夕改革論の視点踏襲されている。しかし、1955年昭和30年8月17日付『北羽新報社説では、より踏み込んだ町組への批判と、制度改革主張された。その要旨大きくまとめると、 七夕行事掛かる費用投資効果問い、より観客意識した商業的姿勢転換すること 五町組市域のうち旧能代港町の狭い範囲とどまり新市域の住民との温度差大きいため、全市な行事に転換すること これらの改革にあたっては市当局主導すること の3点集約される。 このドラスティック改革論が打ち上げられ背景には、柳町動向があった。かつて後町組を構成する一町であった柳町は、この頃後町に代わって親町の座に就きつつあり、また新柳町柳町新道栄町などの旧藩時代系譜持たない町々をも組の中に取り込むことで、新興勢力リーダーになっていったのである。そして、新市域の住民の声を吸い上げる役割果たした後町改め柳町組の主張は、とりもなおさず町組制度改編と、全市七夕への移行論に結びつくこととなった。こうして、昭和30年代通じて町組改編焦点とする改革論が続くこととなる。1962年昭和37年)に出され七夕改革試案では、五町組年番枠組み維持しながら、年番以外の4町組から加勢丁として1基ずつ灯籠を出す全市七夕案が出されたが、これも負担平準化への打開策にはなりえず、立ち消えとなってしまっている。続けて1964年昭和39年)には、七夕改革委員会結成されて、従来の五町組を七町組改組する改革案が出された。この改革案は、従来の五町組から最も枝町の多い柳町組を分割して(新)柳町組と(新)後町組に分けること、町内人口の最も多い畠新丁上町所属)を独立させて新たに新組発足させること、周辺市街地七夕組に参入させること、の3点骨子とする。しかし、各町組人口アンバランス是正することが主眼であったこの改革案も、改組対象となる町にとっては培われてきた人間関係分断に繋がること、戦後ようやく大丁になるターン回ってきた畠新丁にとって、新たな組の発足ゼロからやり直しになってしまうこと、七夕しきたり知らない新しい町を迎え入れるのに難色示されたことから、この改革案も頓挫してしまった。しかし、七町組への改組案は、その後昭和50年代後半まで度々浮上することとなる。 一方、この時期には清助町組の分裂状態解消されるなど、新しい動き見られた。前節述べた通り1898年明治31年)の争闘背景として、清助町組では清助町馬喰町長期わたって対立状態に陥っており、清助町当番町である大丁を務める際は、同じ町組馬喰町加勢を頼むことなく親しみ丁」である柳町依頼し逆に馬喰町が大丁を務める際も、清助町加勢依頼しなかった。しかし、祭り主体となる若者たちの間には元々過去諍い記憶はなく、同じく町組によって行われる日神社御神幸祭(丁山祭り)では既に清助町組内での関係が正常化していた。このため七夕も本来の清助町組を組み直したいという機運熟しており、1959年昭和34年清助町組が当番となった際(この年の大丁は御指南町であったが、規模小さ御指南町のために清助町七夕灯籠用意していた)、馬喰町加勢灯籠を出すことで和解成ったのである5年後再度清助町組の当番となり、清助町が大丁を務めた際も、馬喰町から加勢灯籠出ている。 また、清助町と「親しみ丁」関係にあった柳町でも、時宜捉えた対応が取られた。清助町組で和解成った1960年昭和35年7月20日柳町組を構成する各町が集まり柳町申合せ書』を承認名実ともに後町組から柳町組への移行を図ると同時に明治以来七夕組から離脱していた後町復帰認めた。そして費用負担低減を図る観点から、過去清算が行われたこの機に清助町との「親しみ丁」関係を公式に解消したのであるこのように昭和30年代は、外部からの介入による七夕改革の試み挫折する一方で、五町組内部からの変革動き起こり同時に祭り儀式化への傾斜強めるという動き辿っていった。また、1963年昭和38年)から「こども七夕」の開催始まっている。

※この「観光化への模索と七夕改革論の挫折」の解説は、「能代役七夕」の解説の一部です。
「観光化への模索と七夕改革論の挫折」を含む「能代役七夕」の記事については、「能代役七夕」の概要を参照ください。

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