見解相違による対立から分裂へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:23 UTC 版)
「原水爆禁止日本協議会」の記事における「見解相違による対立から分裂へ」の解説
その後「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」や原発問題への対応の相違が原因となって自民党系及び民社党系勢力が脱退した(民社党系は核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)を結成、自民党系の団体はなし)。 1961年、原水禁7回大会は、「最初に実験を開始する政府は平和の敵、人道の敵」と決議したが、その直後の8月30日にソビエト連邦が核実験を再開した。これに対する対応をめぐって原水協は、ソ連政府にも抗議せよとする日本社会党・総評系と、抗議に反対する日本共産党とが対立した。 翌1962年、8回大会の最中にソ連は再度の核実験を行い、再び昨年と同じ衝突が起り、結局大会は混乱したままに終わった。日本共産党系代表は「核戦争の根源であるアメリカ帝国主義を日本やアジアから追い出せ」と、ソ連の核実験に対する批判をしないばかりか、むしろそれを擁護したまま、反米を中心に置いた反安保・基地闘争も視野に入れた主張をした。 部分的核実験禁止条約を巡る中ソ対立 1963年に、日本社会党・総評系グループが「いかなる国の核実験にも反対」のスローガンを旗印にして部分的核実験禁止条約の支持を要求した。当時、ソ連は中華人民共和国との関係が悪化しており、核開発で先行していたソ連は中華人民共和国の核保有を妨げたいとの思惑から、同条約の締結を推進した。中国共産党はこれを三国だけが核兵器を独占し、中国の核開発を阻止しようとするものと見て強く反発した。 中国の核兵器保有妨害理由の条約反発を受けた日本共産党系は反対理由を「地下核実験を条約によって認めることになる」としていたにもかかわらず、同時に「社会主義国の核兵器は侵略防止のためのもので容認すべき」という主張をした。当時日本共産党は中国共産党との関係を深めていたので、中華人民共和国に配慮して、中国の核保有を事実上禁止することになる同条約に反対した。 このため原水協内部対立が起き、1963年の大会は流会。共産党は、「意見の違いにかかわらず『核廃絶・核戦争阻止・被爆者救援』の三点で統一するべきだ」と主張したが、結局、全面禁止を主張していた社会党系グループは脱退して、1965年2月に原水爆禁止日本国民会議(原水禁)を結成。以後、原水禁世界大会も、原水協系と原水禁系の2つが別々に開催されるようになる。 分裂後の日本原水協は、役員のほとんどが日本共産党員で占められるようになり、共産党の指導のもとで活動する団体となってる。 ただしその後、日本共産党・原水協が中ソ共産党に批判的になり、中ソ核保有容認から核兵器全面禁止に主張を転換させた。その一方、逆に社会党系の原水禁は、日本社会党が反米・親ソ・親中・親北朝鮮の傾向を強めたため、その影響によって、ソ連や中華人民共和国の核に対し擁護的になっていった。 運動開始当初、原水爆禁止運動は超党派で形成され、マスコミ各社もこぞって支援する「国民的運動」だった。しかし党派間のイデオロギーと私利私欲むき出しの争いを嫌い去っていく人が多く、結局のところ政治党派による系列団体化という結果に終わったという見方もある。
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