見解の転換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/21 05:09 UTC 版)
「タデウス・スティーブンス」の記事における「見解の転換」の解説
1830年代、即座に奴隷制度の排除を求める者はほとんどいなかった。奴隷制度廃止運動は始まったばかりで、ウィリアム・ロイド・ガリソンのような人物が戦いの緒についたところだった。スティーブンスが奴隷制度を標的にした理由については、近年の伝記作者の間で議論になっている。リチャード・カレントは1942年に野心から出たものであると示唆した。フォーン・ブロディはその論議を呼んだ1959年のスティーブンス評伝において、彼の障害を元に抑圧された者への同化から生まれたと主張した。トレフーシーは1997年の著作で、スティーブンスの抑圧された者への感情が1つの要因であり、「バトラー事件」での自責の念と組み合わされたが、反奴隷制度運動におけるその熱心さが政歴には障害になっているので、野心が大きな動機になったというのはありそうにないと語った。 1837年に開催されたペンシルベニア州憲法制定会議ではスティーブンスも代議員となり、アフリカ系アメリカ人の権利剥奪に反対して戦ったが、全有権者にとっての最少資産要求は進んで支持した。歴史家のエリック・フォナーに拠れば、「1837年新憲法の投票権条項の故にそれへの署名を拒んだとき、アメリカ市民の人種によらない定義に拘り、余生を通じてそれに執着するつもりだと発表した。」としている。メイソン=ディクソン線からそれほど遠くないランカスター市に移転した後、地下鉄道 (秘密結社)の活動に参加し、逃亡奴隷と見なされる人々を守るだけでなく、自由を求める人々の運動を連携させた。2003年にランカスター市クィーン通りに残るスティーブンスの家を改修したとき、母屋とはトンネルで繋がれた隠された地下室があることがわかり、そこに逃亡奴隷を隠していたと考えられた。 スティーブンスは南北戦争開戦の時まで、奴隷制度の廃止を支持し、それの拡大に反対するという公的な姿勢を取った。それでも、合衆国憲法が州の内部事情については外部の干渉から守っていると考え、奴隷制度が存在する州でそれを妨げようとはしなかった。奴隷所有者でもあるホイッグ党大統領候補者達、1844年のヘンリー・クレイや、1848年のザカリー・テイラーを支持した。
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