西日本鉄道への発展
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電気事業における国家統制強化を目指した電力管理法の出現と同時期、交通事業の分野でも国が交通事業の調整を図るという「陸上交通事業調整法」が成立し、1938年4月に公布された。同法では福岡都市圏を含む5つの都市圏が国主導による交通調整の対象地域と規定されていた。このような背景の中、電気事業を失った九州電気軌道は福岡県内や周辺地域での交通事業統合に意欲を示し、また鉄道省側も福岡県内における事業統合の主体に九州電気軌道を想定していた。 九州電気軌道は福岡県内での事業統合に先立ち大分県の交通事業を傘下に収めていた。まず1938年に大分県の耶馬渓鉄道の経営権を掌握、次いで1940年に九州水力電気から大分県の別府大分電鉄から株式を譲り受けて傘下に収めた(両社ともに大分交通の前身)。福岡県内における事業統合の第一歩は九州鉄道(現西鉄天神大牟田線を運営)と福博電車(後の西鉄福岡市内線=1979年全廃を運営)の2社の買収で、1940年12月、親会社の東邦電力から両社の株式を取得した。 周辺事業者の経営権取得が進む中の1941年8月27日、九州電気軌道は鉄道省から福岡・大分両県にまたがる事業統合を至急実施するよう勧告された。統合対象は経営権を掌握している福博電車・耶馬渓鉄道・別府大分電鉄と、福岡県内の博多湾鉄道汽船(現JR香椎線・西鉄貝塚線を運営)および筑前参宮鉄道(後の国鉄勝田線=1985年廃止を運営)の5社である。この合併が実施されることはなかったが、九州電気軌道を中心とする交通事業統合は国の了承を得たものとなったといえる。この5社合併とは別に、同日、九州電気軌道は小倉市内で電車・バス事業を運営する小倉電気軌道を合併するよう鉄道省より非公式に慫慂された。この合併は直ちに実行され、翌1942年(昭和17年)2月1日付で両社の合併が成立している。合併によって九州電気軌道は45万円増加して3,045万円となった。さらに1941年11月、合併勧告の対象の一つであった博多湾鉄道汽船の株式を取得した。事業統合の趣旨に賛同した同社経営者の太田清蔵が九州電気軌道へ持ち株を譲渡したためである。 福岡県内における九州電気軌道を中心とする事業統合は、その後の太平洋戦争開戦という戦時体制下で実現が急がれ、陸上交通事業調整法を背景とした鉄道省の慫慂に従って、1942年5月9日、九州電気軌道・九州鉄道・福博電車・博多湾鉄道汽船・筑前参宮鉄道の5社間での合併契約締結へと進んだ。統合にあたっては当初各社解散の上新会社を設立する計画であったが、手続き簡略化のため九州電気軌道を存続会社として他の4社と1対1の合併比率で合併することとした。ただし九州電気軌道の財務状況は5社中最低であったため、合併比率に対する株主の理解を求めるべく九州電気軌道は保有する九州鉄道株式8万8,500株および福博電車株式2万780株に対する新会社株式の割当を辞退し、さらに自社株式3,520株を買い入れることで合併に際して総額564万円を減資する措置をとった。これにより新会社の資本金は5,000万円とされた。 5社合併については1942年5月30日に各社の臨時株主総会にて合併が承認され、さらに8月24日に当局の合併認可も取得した。そして合併契約上の合併期日である1942年9月1日付で合併が成立、九州電気軌道が社名を変更して「西日本鉄道株式会社」(西鉄)が発足した。その後9月19日に合併登記を完了、次いで22日に商号変更と小倉市から福岡市への本店移転についての登記も完了した(西鉄では22日を創立記念日としている)。こうして九州電気軌道は九州北部に200キロメートルを超す鉄軌道路線網を擁する一大鉄道事業者となった。
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