西日本鉄道宇美線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/15 07:18 UTC 版)
旧・筑前参宮鉄道線が西日本鉄道宇美線となり、博多湾鉄道汽船粕屋線が西日本鉄道に合併したのち、宇美線が勝田線として、粕屋線が香椎線として1944年に国家買収された。これらに伴い筑前参宮鉄道引き継ぎの半鋼製ボギー式ディーゼルカー3両が移管された。当時の西日本鉄道には他にも非電化の合併各社から引き継いだ気動車があったが、路線転属などの措置で買収を免れている。 形式名「ミヤ」は「筑前参宮」の「宮」にちなむものと見られるが風変わりな例である。戦時合併と国家買収前後の混乱などもあり、西日本鉄道での改称もなく、国鉄での新形式名も与えられていない。 ミヤ101-103 (1932年・1934年 新潟鐵工所製)角張った武骨な車体形状を備える中型のボギー車で、1932年にまずイギリスのAECリカード製A155エンジンを搭載した101・102が製造され、1934年に車体の寸法を僅かに変更して新潟鉄工所自製のLH6Zエンジンを搭載した103が増備された。筑前参宮鉄道はそれ以前にガソリンカーを導入した経歴もなく、技術的に困難なディーゼルエンジンに当初から挑戦した理由は不明であるが、同時期にディーゼルカーを導入して失敗した他社の如くガソリンエンジン換装は為されておらず、同社においてはディーゼルカーが実用水準に達していたと推察される。 名目上は買収を受けて国鉄籍となったものの、既にディーゼル燃料が確保できない情勢で実際に国鉄で使われた記録もなく、書類上は1946年11月に3両全てが戦災廃車されたことになっている。このうちミヤ102については、戦後に鳥栖駅構内で、台車のない廃車体のみが倉庫として残存していたことが確認されている(窓・扉を失い、開口部を板で塞いだ状態での、1957年撮影の廃車体写真が存在する)。 鉄道研究者の湯口徹は資料などを基に、次のような説を唱えている。これら3両のうち101もしくは103のいずれかが1944年の国家買収以前に三重県の三岐鉄道に売却されており、これが一時的に徴用されて代用燃料化などの措置を受け、中央本線鳥居松駅(現・春日井駅)付近の陸軍名古屋工廠鳥居松製造所への引き込み線で工員輸送に用いられたものとおぼしい。そして戦後三岐鉄道に返還されて再生工事を受け、1951年に至って名目上は新車のディーゼルカー「キハ7」(加藤車輌製造所製)として再起したのではないか、というものである。 実際に三岐鉄道キハ7と筑前参宮ミヤ101-103の外見は極めて酷似しており、またキハ7は戦後の新製車両にしては極めて古めかしい外見が趣味者間でも疑問視されていて、筑前参宮の中古車説には説得力がある。なおキハ7の書類上のメーカーの「加藤車輌製造所」は戦後の所在が確認されておらず、この点でも謎が多い。このキハ7は1961年に北陸鉄道に譲渡され、同社能登線キハ5162となったが1968年に廃車、車体は日本海に魚礁として沈められた。
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