街鉄騒動
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第2期線建設中の1920年12月18日、2度目の増資により資本金が257万円から315万円へと引き上げられた。増資の目的は車両増備・発電所建設資金の調達で、本来の増資額は100万円の予定であったが、戦後恐慌の影響で新株募集に難航、結局42万円分の増資を断念せざるをえなくなった。不足額は借り入れで賄ったが、電気供給事業買収や鉄軌道改良の費用などがかさむため再度の増資が必須な状況となった。そこで会社は前回の増資失敗を踏まえ、年率9パーセントの配当を保証する優先株式の発行に踏み切る。発行数は2万7000株で135万円を増資する予定で株式を募集したところ、応募が殺到したため、さらに1万株の優先株を発行した。その結果、資本金は1922年7月1日付で500万円となった。 小塚貞義社長の下で積極経営が展開される一方、市内線第2期線の建設は大樋線南部の建設をもって停止してしまい、大樋線北半分および野町以南の区間と、金石電気鉄道との連絡線は着工されないままであった。第2期線の完成を求める意見は根強く、特に野町以南、泉町・泉新町・有松町などの住民は松金電車鉄道の合併で済ませることなく市内線を当初計画通り有松町まで延伸するよう求める陳情活動を展開していた。そうした意見に反し、小塚は現在の北陸鉄道浅野川線を建設した浅野川電気鉄道の発起人に名を連ね、津幡町への鉄道建設を目指した河北電鉄にも関与するなど、金沢市域を超えた鉄道建設を志向していた。 小塚の経営方針に対する不満は、1924年(大正13年)10月、一部株主が会社の業務および財産状況を調査する検査役選出を要求する、という形で噴出した。現経営陣の経営を放漫経営であるとして検査役選出を求めた株主の代表は、会社設立時に市長として設立作業を手伝った山森隆であった。検査役選任に関する臨時株主総会は12月11日開催と決まり、その間、株主は山森ら「非会社派」と「会社派」に分かれ委任状争奪戦を展開する。「非会社派」には当時の市会野党立憲政友会の市会議員、「会社派」には与党である非政友系の議員が名を連ねており、市会における対立が波及した面もある。しかし、債務増大に対する不安から生じた株価低迷、優先株発行による配当格差拡大、統合会社の旧株主に与えた有利な合併・買収条件などについて、市民を中心とする会社設立以来の株主の間に経営陣に対する不満が高まっていた点が騒動の根本的な原因であった。 総会を前に両陣営は筆頭株主である前田家の持株を狙い、暴力団を雇って成巽閣に座り込みを続けたという。総会を控えた11月20日、小塚は社長を辞任する。12月11・12日開催の総会では検査役が選任される一方、小塚の後を受けた横山一平が約2000株の差で非会社派(山森派)を抑えて後任社長となった。翌1925年(大正14年)5月、会社業務・財務状況に異常なしとする検査役の調査結果が出されると、騒動は沈静化に向かった。 以上、一連の騒動を「街鉄騒動」という。この混乱の裏で、騒動から逃れようとする前田家が持株を手放し、さらに昭和に入ってからの恐慌で横山家が没落したため、金沢電気軌道の株式は一時期大量に流出し、株価が暴落した。これら市中に出回った株式は、石川県進出を狙う富山県高岡市の電力会社高岡電灯が買い集めていく。そして同社社長の菅野伝右衛門は1930年(昭和5年)金沢電気軌道の取締役に就任した。その間、1925年7月に横山隆俊が社長となり、1931年(昭和6年)1月からは横山一平が再度社長に就いていたが、横山一平の死去に伴い1932年6月菅野が第6代社長に就任した。こうして金沢電気軌道は高岡電灯の関係会社となった。
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