街路の歴史
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「ウンター・デン・リンデン」の記事における「街路の歴史」の解説
1647年、フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯が先進の建設技術に秀でたオランダ人技術者に王宮から狩場であるティーアガルテンへ向かう一直線の菩提樹の並木道を建設させた。この並木は王族や貴族たちの散策路としても使われた。当時は沿道には建物もなく荒地であった。 しかし城壁で囲まれたベルリンは城壁を越えて西の方向に膨張をはじめる。1674年、並木道の北側に貴族や富裕な市民が新市街ドロテーエンシュタットを建設、1688年から1698年に南側にフリードリヒシュタットが建設され、沿道は格子状の整然とした市街を形成するようになった。ウンター・デン・リンデンはこれら新市街に挟まれた通りとして改めて整備が行われ、以後、プロイセンの絶対君主たちは沿道に権威を誇示するような教会や広場や文化施設を建設した。1696年にティーアガルテンを越えた先にシャルロッテンブルク宮殿が完成すると、ウンター・デン・リンデンはティーアガルテンを貫いて同宮殿の方向に延長され、ブランデンブルク門から先の延長部分はシャルロッテンブルガー・ショセーとなった(現在の六月十七日通り)。 この時期、フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯が発したポツダム勅令によりフランスから宗教の自由を求めて宗教難民ユグノーたちが寛容なプロイセンに移住してきた。彼らの多くはベルリンに住み、フリードリヒシュタットには教会(フランス教会堂、現ユグノー博物館)を建てた。人口2万人に満たないベルリンに6千人も押し寄せたフランス人は、手工業者や商人が多く、勤勉さや優れた技術をベルリンにもたらし、フランスの先進的な文化や習慣を持ち込み、ベルリンは開かれた都会へと変貌した。 19世紀以降のベルリンの急激な拡大とともにウンター・デン・リンデンは多くの繁華街の一つとなったが、教会や壮麗な国立歌劇場などの文化施設、高級店舗、高級ホテルなどが立ち並ぶウンター・デン・リンデンは、ドイツのみならずヨーロッパを代表する華麗な街路となり、パリのシャンゼリゼ通りとも比される存在となった。1900年にはヨハン・シュトラウス3世がこの大通りの美しさを称えたワルツ『ウンター・デン・リンデン』を作曲している。1918年、帝政ドイツが崩壊しドイツ革命の余燼覚めやらぬ1923年頃、『ウンター・デン・リンデン』という歌が市民に流行した。ベルリンを捨てオランダに亡命した皇帝ヴィルヘルム2世を揶揄する内容が含まれている。 ウンター・デン・リンデンに老木が花をつけ続ける限り、俺たちを押さえつけるものは何もない。ベルリンはいつまでたってもベルリンだ。誰もお前の味方をしなくなっても、俺だけはお前を見捨てないぜ。古い馴染みのベルリンよ、ベルリンはいつまでたってもベルリンだものな。 — 『ウンター・デン・リンデン』 第二次世界大戦末期、菩提樹の多くが戦闘で失われたり、戦後の困難な時代に燃料の焚き木にするため切り倒されたりした。歴史的建築物は米英軍のベルリン大空襲と、ソ連軍との市街戦で廃墟と化した。戦後、ウンター・デン・リンデンはすべて東ドイツ政府が統治する東ベルリン地区となったが、1950年代に菩提樹が再植林され、歴史的建築物の廃墟も軍国主義の象徴とみなされ撤去されたプロイセン王宮を除き、東ドイツ政府のソ連に遠慮しながらの数十年間にわたる再建事業によってほぼ原状回復された。ドイツ再統一後も歴史的建築物の修復や再建は続けられている。 フランツ・クリューガー作、ノイエ・ヴァッヘ前のパレード 1824年- 1830年 アンナ・ビリンスカ、『ウンター・デン・リンデン』 1890年 1900年頃のカフェ・バウアー周辺 1900年頃。中央に見えるフリードリヒ大王騎馬像より西から菩提樹の並木道が始まる 1945年6月。ソ連占領下のウンター・デン・リンデン フリードリヒ大王騎馬像 クリスマスのウンター・デン・リンデンのライトアップ 夏のウンター・デン・リンデン
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