九条竴子
(藤原しゅん子 から転送)
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九条 竴子(くじょう しゅんし[* 1]/よしこ、承元3年5月22日(1209年6月25日) - 天福元年9月18日(1233年10月22日))は、鎌倉時代の后妃、国母、女院。後堀河天皇の中宮で、四条天皇と暤子内親王の母。女院号は藻璧門院(そうへきもんいん)。父は摂政関白左大臣九条道家、母は太政大臣西園寺公経女・掄子(綸子)。摂政関白左大臣九条教実、二条家の祖となった関白左大臣二条良実、鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経、一条家の祖となった摂政関白左大臣一条実経らは同母弟にあたる。
注釈
- ^ 道家から娘の入内にあたっての名前について諮問を受けた定家は、「竴子」の音が「七旬」の反切に相当し縁起がよいと推奨している(『明月記』 寛喜元年十月廿六日条)。
- ^ 貞永元年4月4日とも。
- ^ 『大日本史』は、この経緯に関する『明月記』を引きつつ、「前日以為不吉,而今乃吉歟」と訝っている(『大日本史』 卷之八十二 列傳第九 后妃九 後堀河天皇条)。
- ^ 定家は、宜秋門院がたまたま訪れた後堀河院民部卿典侍に、藻壁門は忌避するはずだったのに善くなったのかしらと語ったことを記した上で、そうしたことを忘れない彼女の「賢貞之御本性」を賞賛している。また以前の院号定めの際にはその直前に藻壁門が顛倒したこともあったと記している(『明月記』 天福元年四月丗日条)。
- ^ 「祭り祓へ 何くれとおびたたしく まだきよりののしる まして其の程近くなりては 天の下やすき空なく 山々寺々社々 御祈りひびき騒げども 御物のけこはくて いみじうあさまし」(『増鏡』 第三 藤衣)
- ^ 「此の御歎きに いよいよ院は沈みまさらせ給ひて うち絶えて御湯などをだに御覧じいるる事なくて 月日つもらせ給へば(中略)院の御悩み日々に重くならせ給ひて 八月六日 いとあさましうならせ給ひぬ」(『増鏡』 第三 藤衣)
- ^ 「天下諒闇なれども 法勝寺御八講に御幸ありけるに 御者すでに阿弥陀堂の御前へ寄たりけるに 藻璧門院の昔の御姿うつくしげにて 九重塔の第三層とかやにわたらせ給けるを あれはいかにと思食て 御車寄に摂政のさぶらはせ給けるに あれは見まゐらするか と仰ありければ みまゐらせ候 と申されけり 余人は見まゐらせず 不思議にぞありける」(『五代帝王物語』)
- ^ 「上皇も此御歎のつもりにや 同二年八月六日かくれさせ御座す 御年廿三 おしかるべき御齢なり 代々の帝王短祚におはします例のみおほかれども 女院の御事に打つゞき此御事のいできぬる いかにも子細ある事也 後鳥羽院の御怨念 十楽院僧正などの所為にやとぞ申あひける」(『五代帝王物語』)
- ^ 「近日夢告多聞 其心兜率之引接歟 此池水之心 又是八功徳池候心歟」(『明月記』 天福元年十一月十一日条)
- ^ 「問ふ 藻璧門女院は いづくに生まれおはしますや 答ふ この道に来りておはしますなり 十楽院僧正のこれに共ふなり 常に蓮台野の辺に住するなり 返すがへす不便にこそ見え奉れ これらがなぶりぐさにてこそはあらむずらん また尼にておはするなり」(『比良山古人霊託』)
出典
- ^ a b 『女院小伝』
- ^ 高松、2017年、P189-190
- ^ 高松、2017年、P188-189
- ^ 高松、2017年、P186-187
- ^ 高松、2017年、P178-183
- ^ 高松、2017年、P190-192
- ^ 高松、2017年、P192-195
- ^ 高松、2017年、P184-186
- ^ 『大日本史』 卷之八十二 列傳第九 后妃九 後堀河天皇条
- ^ 『五代帝王物語』後堀河院
- ^ 『新勅撰和歌集』 巻第三 夏歌 00192
- ^ a b 『明月記』 天福元年四月廿五日条
- ^ 『明月記』 天福元年四月四日条
- ^ 『明月記』 天福元年九月十九日条
- ^ 『明月記』 天福元年九月十九日条、同廿四日条
- ^ 『明月記』 天福元年九月十九日条、同丗日条
- ^ 滝沢(参考文献)
- ^ 『明月記』 天福元年十一月十一日条、『民部卿典侍集』
- ^ 『明月記』 天福元年十二月一日条
- ^ 細川(参考文献)
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