薬師寺への奉納
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同1980年(昭和55年)頃、奈良県薬師寺の幡(ばん、仏像や法要の場を荘厳する仏具としての旗)の制作依頼があった。当時の薬師寺の管長である高田好胤は、1970年に木内の作品を購入した縁で、木内が仕事上の悩みを高田に相談するなど、深い交流を持っており、高田は木内の優佳良織を「北のまほろば」と評価していた。高田のいう「まぼろば」とは「自分の故郷は美しい国である」との喜びや誇りを抱くことであった。他の総代や僧侶は当初「羊の獣の毛で幡を織るのは古今東西例がない」と猛反対したが、副住職が古書を調査したところ、2世紀か3世紀ごろに羊毛で織った幡があることが分かり、皆は納得したということであった。 木内は、当時は自分の織りさえ確立できずに苦労していた時期の上に、幡がどんな物かも理解できないために、気安く引き受けるのはあまりに恐れ多いと考え、その依頼を固辞した。それでも薬師寺側からは、「勉強のために」と古書や資料が次々に届いた。木内が断りの旨の手紙を書いても、「何年でも待ちますから、ゆっくり考えて下さい」と返事が来た。 その数年後、薬師寺の総代会の者が再び木内のもとを訪れて、改めて幡の奉納を依頼した。薬師寺側からの催促がないことから、木内は逆に幡への好奇心が湧いていた時期であった。折しも薬師寺では、かつて焼失していた金堂の再建が完了しており、これ以上待たせることはできないと思われたこと、また「歴史に名が残らなくとも、幡を残せば生きた証しになる」との考えから、本件を引き受けることを決心した。 当時、木内は毎年のように、故郷の大雪山系の秋を彩るナナカマドを題材とした作品の作業に追われており、これは7年越しで織り上げてきた、思い入れの深い作品であった。木内はまさに今、完成するナナカマドの作品こそ、自分の心の「まほろば」であり、荘厳な薬師寺の堂にふさわしい作品と考えた。総代の者からも快諾を得られた。 1983年(昭和58年)、木内は北海道の大自然を織り込んだ作品として、このナナカマドを始めとする4つの作品を奉納した。木内が薬師寺の金堂に足を踏み入れたときは、優佳良織の幡が、あたかも大雪山の光景がそこにあるかのよう輝いており、その感動は木内にとって忘れられないものとなった。 一人金堂を訪れ、堂内に一歩足を踏み入れた時の感動を今でも忘れません。薄暗いお堂の中に差し込む陽の光が優佳良織の幡に止まって輝いています。一瞬、大雪山系をナナカマドの紅葉が染める風景を見た思いがしたのです。 — 木内綾、三井泉「木内彩と優佳良織工芸館 - 創業者の『夢の作品』」、中牧 & 日置 2000, p. 188より引用 その後も幡の奉納は、ほとんど毎年続けられた。幡は奉納の場所ごとに大きさが異なり、大きなものでは幅70センチメートル、長さが4.5メートルもあった。しかも通常の織物と違って糸も太く、1本の糸を通して10回も幡を織る必要があった。木内は従業員たちと力を合わせて作業にあたったが、それでも腕は腫れ上がり、膝がガクガクと震えた。その上で作家である木内たちがすべての織に納得する作りにする必要もあり、織り上がるまでには半年もかかった。これは木内の織物作家としての人生をかけた、命がけの仕事と言えた。 1991年(平成3年)には雪の上で転倒して脚を複雑骨折し、歩行には何年も杖を要するほどで、奉納を続けるうちに傷が悪化したが、それでも「これを成し遂げなければ」「やらねばならない」と、命懸けの思いで織り続けた。時には癇癪を起こしたこともあった。そんな話を聞いたか、高田好胤は一度だけ木内の織りを見に訪れて、「こんなにして織るんやからな。大変やな。ありがたい、ありがたい」と言って、じっと機に手を合わせた。木内にとっては、それまでの苦労が消えていく思いであった。 2003年(平成15年)、北海道を題材としたすべての幡の奉納を終えた。その数は合計80流にのぼった。そのうち、大講堂の幡は「流氷」「北の岬」「白鳥」「冬の摩周湖」「雪の紋章」「ライラック」の6流であり、薬師寺からは「落慶まで1流でいいです。あとは何年かかろうと、目録で結構です」と言われていたが、木内はこのすべてを揃えた。これは優佳良織の織元である木内がライフワークとして取り組んだ作品群であり、木内の作品の集大成となった。
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