蒲田撮影所での活躍
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蒲田撮影所復帰後から1923年(大正12年)8月までに監督した作品は23本で、無字幕映画の『狂へる剣技』、勝見庸太郎主演の『母いづこ』、三村主演の『傷める小鳥』などの感傷悲劇ものを多く撮り、「センチメンタル牛原」と呼称された。1922年(大正11年)、蒲田撮影所で庶民派女優として活躍していた三村と結婚した。 1923年(大正12年)9月1日、徳田秋声原作の『無花果』の撮影初日を迎えて、蒲田撮影所のダークステージで撮影中に関東大震災に遭遇、撮影所は罹災し、京都に下加茂撮影所をつくって撮影所の機能を移転。9月12日に牛原は妻とともに、横浜から救難船のウエスト・オロワ号に乗って神戸まで向かい、そのあと京都に移住した。京都では、震災を扱った『大地は怒る』など数本を製作したが、翌1924年(大正13年)には蒲田撮影所が機能復帰し、震災で製作が中止していた『無果花』を監督後、勝見主演の『詩人と運動家』や、日活と東亜キネマとの競作になった『大地は微笑む』(三部作)などを監督した。 1926年(大正15年)、松平侯爵の援助でアメリカへ渡ることとなり、1月8日に天洋丸で横浜を出港、1月26日にロサンゼルスに到着した。牛原は帰国まで南アードモア街の上山草人宅に滞在し、到着の翌日から上山の案内で撮影所見学に回った。2月4日からポール・スローン(英語版)監督の『Eve's Leaves』にエキストラとして出演。3月15日には牛原が持参した『象牙の塔』と『乃木将軍』の上映会を、ロサンゼルス日本領事の大橋忠一の厚意によりアンバサダーホテルで行われ、アンナ・メイ・ウォンやキング・ヴィダーらが来会した。また、高野虎市の厚意でチャールズ・チャップリンの『サーカス』の撮影に立ち会う機会にも恵まれた。 同年7月22日、天洋丸で帰国。帰国第1回作品は『受難華』で、当時雑誌『婦女界』に連載中だった菊池寛の小説の映画化である。『受難華』は栗島すみ子・松井千枝子・筑波雪子が競演した全18巻の大作で、600円もかかった原作料は日本一高いと評判になった。また、ハリウッドで学んだ斬新な演出手腕を発揮して大ヒットし、第1回キネマ旬報ベスト・テンで第6位となった。1927年(昭和2年)からは、鈴木傳明を主演に『彼と東京』『彼と田園』『陸の王者』『彼と人生』といった、モダンで明朗快活な青春映画で高い評価を受けた。 1930年(昭和5年)、蒲田撮影所創設10周年記念特作映画と銘打たれた『進軍』を監督。1年以上かけて撮影を行い、膨大な製作費をかけて製作された。キネマ旬報ベスト・テン第2位の『若者よなぜ泣くか』を撮った後、松竹を退社する。
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