蒲田撮影所での活躍とは? わかりやすく解説

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蒲田撮影所での活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 03:56 UTC 版)

牛原虚彦」の記事における「蒲田撮影所での活躍」の解説

蒲田撮影所復帰後から1923年大正12年8月までに監督した作品23本で、無字映画の『狂へる剣技』、勝見庸太郎主演の『母いづこ』、三村主演の『傷める小鳥』などの感傷悲劇ものを多く撮り、「センチメンタル牛原」と呼称された。1922年大正11年)、蒲田撮影所庶民派女優として活躍していた三村結婚した1923年大正12年9月1日徳田秋声原作の『無花果』の撮影初日迎えて蒲田撮影所のダークステージで撮影中に関東大震災遭遇撮影所罹災し京都下加茂撮影所つくって撮影所機能移転9月12日に牛原は妻とともに横浜から救難船のウエスト・オロワ号に乗って神戸まで向かいそのあと京都移住した京都では、震災扱った大地は怒る』など数本製作したが、翌1924年大正13年)には蒲田撮影所機能復帰し震災で製作が中止していた『無果花』を監督後、勝見主演の『詩人運動家』や、日活東亜キネマとの競作になった大地微笑む』(三部作)などを監督した1926年大正15年)、松平侯爵援助アメリカへ渡ることとなり、1月8日天洋丸で横浜出港1月26日ロサンゼルス到着した。牛原は帰国までアードモアの上山草人宅に滞在し到着翌日から上山案内撮影所見学回った2月4日からポール・スローン(英語版監督の『Eve's Leaves』にエキストラとして出演3月15日には牛原が持参した象牙の塔』と『乃木将軍の上映会を、ロサンゼルス日本領事大橋忠一厚意によりアンバサダーホテル行われアンナ・メイ・ウォンキング・ヴィダーらが来会した。また、高野虎市厚意チャールズ・チャップリンの『サーカス』の撮影立ち会う機会にも恵まれた同年7月22日天洋丸で帰国帰国第1回作品は『受難華』で、当時雑誌婦女界』に連載中だった菊池寛小説映画化である。『受難華』は栗島すみ子松井千枝子筑波雪子競演した全18巻大作で、600円もかかった原作料は日本一高いと評判になったまた、ハリウッド学んだ斬新な演出手腕発揮して大ヒットし、第1回キネマ旬報ベスト・テンで第6位となった1927年昭和2年)からは、鈴木傳明主演に『彼と東京』『彼と田園』『陸の王者』『彼と人生』といった、モダン明朗快活青春映画高い評価受けた1930年昭和5年)、蒲田撮影所創設10周年記念特作映画と銘打たれた『進軍』を監督1年以上かけて撮影行い膨大な製作費をかけて製作された。キネマ旬報ベスト・テン第2位の『若者よなぜ泣くか』を撮った後、松竹退社する

※この「蒲田撮影所での活躍」の解説は、「牛原虚彦」の解説の一部です。
「蒲田撮影所での活躍」を含む「牛原虚彦」の記事については、「牛原虚彦」の概要を参照ください。

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