航空局長争いとは? わかりやすく解説

航空局長争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/29 16:07 UTC 版)

ジョン・ヘンリー・タワーズ」の記事における「航空局長争い」の解説

1928年8月タワーズ航空局戻り計画課長就任。これと前後してモフェットキング空母「レキシントン」艦長として推薦する採用されず、その代わり航空局次長据えた。しかし、キング次長にしたモフェットこの人事は失敗に終わる。モフェットキングことごとく意見対立しタワーズともそりが合わなかった。上とも下ともうまくやっていけなかったキング辞任余儀なくされ、ノーフォーク海軍航空隊司令となって航空局から去っていった。1929年4月タワーズ航空局次長となるが、これは海軍省始まって以来の若い次長だった。また、モフェットロンドン海軍軍縮会議1930年)に出席した際には、局長代理となった。このあたりからタワーズモフェット結びつきが深まるが、同時にキング始めとして周囲から「野心家」として警戒されるようになるこの頃タワーズは、モフェットがそうであったように人集め政治活動努めた前者に関して計画課長後任リッチモンド・K・ターナーアナポリス1908年組)を据えペンサコーラ海軍飛行学校第1期生でもあるマーク・ミッチャーアナポリス1910年組)も計画課に入れた1931年6月航空艦隊司令官ハリー・E・ヤーネル少将アナポリス1897年組)の下で参謀長就任すると、ここではアーサー・W・ラドフォードアナポリス1916年組)やフォレスト・シャーマンアナポリス1918年組)を参謀として航空艦隊引き入れたこのような集め行っているうちに、自然とタワーズ祀り上げる「閥」ができあがり、主に若年からのパイロット出身者の間から「クラウンプリンス」的な扱いをされるようになる後者政治活動では、モフェット勧めカール・ヴィンソンら有力議員昵懇の仲となり、航空産業界にもしきりに顔を出すようになっていった 1932年2月タワーズ陸海軍合同演習ハワイ奇襲立案する。「レキシントン」と「サラトガ」に日曜日乗じてハワイ接近させ、荒天夜闇をついて奇襲には成功したが、陸上機潜水艦反撃受けて損害を出す、と判定された。続く大演習第13次フリート・プロブレム(英語版)では空母同士戦い繰り広げたハワイ奇襲演習後年日本海軍真珠湾攻撃という形で大規模になって「模倣」されることとなった。ところで、この演習時の「レキシントン」艦長キングだった。回り道の末に空母艦長の座が巡ってきたキングは、モフェット勧めるサラトガ艦長航空艦隊司令部同居しているため敬遠し、かつて願っていた「レキシントン」艦長の座を射止めていたのである。フリート・プロブレムが終わってサラトガ」がオーバーホール出たため、航空艦隊司令部偵察艦隊に移る「レキシントン」を仮住まいとしたが、ここでタワーズキングは「レキシントン艦内顔を合わせるたびに火花を散らす不仲ぶりを公にさらけ出すこととなってしまった。 門外漢ながら海軍航空のために1921年以来航空局長として辣腕振るったモフェットは、平時定年の時が迫っていた。モフェット政治活動活発に行っていたのも、海軍航空立場大きくするためという理由の他に、生粋パイロットであるタワーズ局長の座を禅譲するという伏線があった。タワーズ局長になるためにはハードルいくつかあったが、とにもかくにも局長なるには年齢が若すぎ、しかも、局長ポスト少将平時進級昇進するまでには時間があった。この点では、同じよう航空局長狙っていたキング少将昇進しており、一歩有利だったモフェットヴィンソン航空産業界、パイロット出身者後援があるタワーズと、いわゆる制服組」の後援得たキングの航空局長争いは、1933年4月4日起こった飛行船アクロン」 (USS Akron, ZRS-4) の墜落事故モフェット殉職したことにより事実上決着したタワーズは有力後援者失いモフェット心血を注いで作り上げた政界後ろ盾空しく立場弱体化させていった。さらに、人事面でモフェットと角を突き合わせていた航海局は航空局に「復讐」を行う。航海局長フランク・B・アパム英語版少将アナポリス1893年組)はキング航空局長として推薦し海軍作戦部長ウィリアム・プラット(英語版大将アナポリス1889年組)の支持得られたため、クロード・スワンソン海軍長官はこれを受けてフランクリン・ルーズベルト大統領キング航空局長として推薦し許可された。こうして、モフェット後釜争いキング勝利終わった

※この「航空局長争い」の解説は、「ジョン・ヘンリー・タワーズ」の解説の一部です。
「航空局長争い」を含む「ジョン・ヘンリー・タワーズ」の記事については、「ジョン・ヘンリー・タワーズ」の概要を参照ください。

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