舞踊教育
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/22 08:40 UTC 版)
「マーガレット・ドウブラー」の記事における「舞踊教育」の解説
ドウブラーは1917年の夏にダンスを教え始める。彼女はダンスを、自分の基盤を形成した芸術かつ科学であると述べている。 ドウブラーの舞踊理論は女性的かつ審美的であり、それゆえ受け入れられやすかった。自然な体の動きを独自に考え、それに基づいたエクササイズを教えた。形式的なダンス・テクニックを必要としない動きであった。まず床の上での動き、次いで立った姿勢へと進んだ。ドウブラーの関心は、「体の位置の構造的な変化」や「自己生成する創造性」に対して体がどのように反応するか、という点にあった。 学生たちには、動きを通じて自分の考えや感情を表現することを求めた。自分の動きを科学的な言葉で記述するよう求めることもあった。舞踊教育の理論を独自に練り上げたドウブラーは、1921年に『踊りの手引き――舞踊教師のための提案と文献』(Manual of Dancing:Suggestions and Bibliography for the Teacher of Dancing)と題する本を書いた。また1940年には、4冊目の著書『ダンス――創造的芸術体験』(Dance:A Creative Art Experience)が出版される。この本の中で、ドウブラーは、ダンスを通した思考や感情の表現に関する舞踊教育理論を説明している。それによれば、テクニックとは「精神を訓練することで身体を表現の道具として使うこと」なのだという。 また、ダンスを通して自分の感情を表現した時に何が露わになってしまうだろうかという不安を取り除き、自信を持たせる教師の能力にドウブラーは力点を置く。 さらにこの本にはドウブラーの構成法、すなわちクライマックス、移行、均衡、シークエンス、反復、ハーモニー、ヴァラエティ、対比といった諸原理も示されている。 1918年、ドウブラーはオルケシス(Orchesis。ギリシャ語で舞踊やジェスチャーを意味する)という舞踊団を設立した。 またウィスコンシン大学は1921年にダンス専用のスタジオであるラスロップ・ホールを開設した。同大学は舞踊コースを作った最初の大学でもある。1926年に、ドウブラーとジョージ・セラリー人文科学部長および教育学科の共同作業により、舞踊を専攻する初めてのカリキュラムが作られたのである。 舞踊教育に対するドウブラーの考えは、「一人一人が最大限に生きられるようにする」ことであり、「教育のプロセスは人間の命の本性に関する科学的事実に基づいたものでなければならない」という。 その思想および教育において、ドウブラーは運動感覚の意識に焦点を当てることを提唱し、これを三つの段階に分けている。すなわち、1)フィードバック(筋肉、関節、腱からの情報提供)、2)連合(脳内で生じる)、3)フィードフォワード(予測制御。メッセージを筋肉に送り返すプロセス)である。
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