自治政府の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/20 06:31 UTC 版)
1805年1月11日にアメリカ合衆国議会で成立した法律によりミシガン領土が創設され、その年の6月30日に施行された。この法律では領土の境界を、「インディアナ準州の一部で、ミシガン湖の南岸屈曲した地点から東にエリー湖まで引いた線の北側、前述の屈曲した地点から北にミシガン湖の中央へ引いた線の東側、およびアメリカ合衆国の北の国境より南側の地域をふくむ」とされた。初代準州知事ウィリアム・ハルはウェイン郡を廃止し、彼自身の考えで新しい地域を創ったが、短命に終わった。1815年に知事となったルイス・カスは直ぐにハルの決めた区分を取り消し、ミシガン領土内の全ての領域を3回目のウェイン郡として再設定した。領域内の土地は、1807年のデトロイト条約により、すべてインディアンからの割譲が終わっていた。 米英戦争の間、1812年8月16日にイギリス軍のアイザック・ブロック将軍によってデトロイトが落され、ミシガン領土は名目上アッパー・カナダの一部となった。8月24日、デトロイト砦守備軍の指揮官ヘンリー・プロクターは、現行法下の市民政府の継続と、プロクターが知事を代行し、オーガスタス・B・ウッドウォードが主席判事と秘書官を兼ねることを宣言した。1813年2月4日、プロクターは市民政府を閉鎖し、戒厳令を発した。 1816年にインディアナ州が、1818年にイリノイ州が成立すると、その領域の残された部分がミシガン領土に併合された。この時に、ミシガン領土の30郡区に相当する地域が、インディアナ州がミシガン湖へ接するようにするために割譲された。その後間もなく、連邦政府は急速にこの地域のインディアンと条約を結び、その土地を獲得していった。 1824年、ミシガン領土は合衆国の領土としては第二番目の段階である準州になり、行政権は知事と一握りの判事から市民に委譲された。市民は準州議会の代表18人を選出し、この中9人がアメリカ合衆国大統領に承認され、1824年6月7日に最初の議会が開かれた。議会定員は1825年に9人から13人になり、大統領は26人の候補者の中から13人を選んだ。 1825年にはエリー運河が開通し、ニューイングランドやニューヨーク州の開拓者がオールバニから水路でミシガンに来ることが可能になった。 1834年、ルイジアナ買収で獲得された土地の中、まだ活用されておらず、ミズーリ川から東の領域全てがミシガン準州に付属となった。おおまかに言って現在のダコタ州、アイオワ州およびミネソタ州である。公式には「ミズーリ州の北で、ミズーリ川とホワイト・アース川の東」と呼ばれる地域であった。この時点でミシガン準州は、今日のミシガン州、ウィスコンシン州、アイオワ州、ミネソタ州および南北両ダコタ州の大部分を含む広大なものとなった。 一方、1835年にトレド・ストリップと呼ばれる細長い領土を巡って、トレド戦争と呼ばれる論争がオハイオ州との間に起きた。結局トレド・ストリップはオハイオ州に割譲され、その代わりにミシガン準州はアッパー半島の西側を確保した。 北西部条例に基づく領土の中では奴隷制度が禁止されていたが、イギリス人やフランス人住民は領土が組織される時点で所有していた奴隷を持ち続けることを認められていた。1810年と1830年の国勢調査では、領土内人口に2桁の比率で奴隷がいたことを示しており、多くの場合、アフリカ系アメリカ人よりも奴隷にされたアメリカ州の先住民族であったと信じられている。 1836年7月3日、ミシガン州設立の準備のためにウィスコンシン準州が創設され、現在のウィスコンシン州、ミネソタ州、アイオワ州および両ダコタ州の東半分が切り離された。ミシガンは1837年1月26日に州に昇格した。この時、それまでの数年間ミシガンの州昇格の障害となっていたアッパー半島の帰趨について、トレド・ストリップの紛争解決の見返りであるモントリオール川から西が州土として認められた。州都はデトロイトであったが、1847年3月17日にランシングに置き換えられた。州昇格時の人口は約20万人と見積もられているが、これは北西部条例で規定されていた6万人をはるかに超えるものであった。
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