自主統合の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 05:37 UTC 版)
この頃、周辺の事業者との競争も激しくなっていた。高府線では高府自動車商会との間で、長野から真島を経由して篠ノ井を結ぶ真島線では北信自動車との間には、数回にわたり話し合いや協定が行われているにも関わらず、競合激化の一途を辿った。妙高自動車も、小規模事業者との競合が激しくなっていたが、こうした中で、激しい競合を憂慮する意見も出てくることになった。 まず、妙高高原の旅館主が一元化により不当競争を排除する方針を決めた上で、川中島自動車に計画の推進を依頼した。これを受けて、1930年7月に田口温泉自動車を資本金5万円で設立し、宇都宮信衛が社長となり、妙高自動車や赤倉自動車も路線運行の権利を譲渡することで運営に参画することになった。 また、昭和初期の不況もあり、小規模な事業者の経営は極めて苦しくなり、経営が続けられなくなるケースも出始めていた。こうした中、1931年に「交通企業の合理化と交通事業の統制」を目的とした自動車交通事業法が公布され、1933年10月から施行された。同法の精神は1路線1営業主義で、業者の集約によりバス事業を強化することを主な目的としていた。同法の基準に満たない事業者も多く、それらの小規模事業者は資本力のある事業者と自主統合する方向性が形成された。 川中島自動車でも法の目的に沿う形で、1934年に高府自動車商会を合併し、大町まで路線を拡大したのを皮切りに、周辺の事業者の統合に着手した。その後も裾花自動車・田口温泉自動車・野尻自動車商会を買収し、1937年までには長野・新潟の県境付近に事業基盤を有するようになった。この頃には長野市周辺の山岳観光地の開発が本格化した時期であり、川中島自動車では1934年より戸隠登山バスの運行を開始、さらに1936年には鉄道省の急行列車と連絡して長野から飯綱・戸隠経由で柏原までの登山客輸送も開始した。 この頃、1930年から運行を開始していた省営自動車は、1934年に全国展開を企図した運行計画を策定したが、長野県内では上田と渋川を結ぶ路線(志賀草津高原線・鹿沢菅平線)・塩尻と下諏訪を結ぶ路線(諏訪線)・長野と大町を結ぶ路線が計画されていた。このうち、長野と大町を結ぶ路線は、既に川中島自動車が路線を運行している区間であり、自動車交通事業法で1路線1営業という方針が示された直後であったことから、川中島自動車では省営自動車反対の立場をとった。地域住民の中には利便性が増すため省営自動車運行に賛成する考えもあり、賛否両論となったが、省営自動車の長野と大町を結ぶ路線運行計画は道路改修費の不足や運賃競争力から、最終的には見送りとなっている。 この頃、冬季の自動車運行を確保するため、前輪の代わりに鉄製のスキーを装着し、後輪にはタイヤでなくキャタピラを装備した雪中バスの開発を行った。試運転の結果も問題なかったが、実際の営業には使用されていなかった。
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