自主的な帰還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 14:07 UTC 版)
長年の議論の末、2000年にブータン政府とネパール政府は、ネパールの難民キャンプに居住する特定のブータン人を帰還させることで合意した。しかしながら、合意の趣旨には、一部の難民キャンプの住人は、難民の地位を獲得する以前は、ブータン国民でもなければ住民ですらなかったという見解も含まれていた。更に、ブータン政府は、ブータン人民党 (BPP) や ブータン国家民主党(英語版) (BNDP)といった、ネパールのローツァンパコミュニティ内における多数の政治団体を、テロリスト集団や反政府集団とみなしていた。その上、かつて難民たちがブータン国内で所有していた土地や資産は、ブータン政府推奨のもとで政府関係者や軍人を含むガロップ族(英語版)らにより乗っ取られていた:70–73:39–40。 2001年3月に帰還に適格なブータン難民の審査がネパールの難民キャンプで開始された。実際の帰還は1年以内に行われると見られていた。しかしながら、その進捗は10年あまり中断している。2003年にブータンの審査チームがジャパ(英語版)で襲撃を受け負傷し、結果として更なる審査の遅れをもたらした。2011年の時点で、クドゥナバリ難民キャンプの難民のみが帰還を認められ、その数は200人以上にのぼる。しかしながら、実際にはブータン難民は1人も帰還を果たしていない。2011年4月、ブータン政府とネパール政府は再び会談を開いたものの、UNHCRはブータン政府が帰還者に対して完全な市民権とその他の人権を与えることを拒否することを考慮に入れ、第三国定住の実現に取り組み続けた。2011年7月の時点で、ブータン政府とネパール政府は少なくとも15回の二者協議を行っていたが、現実的な解決策を得ることは無かった。ブータン国営メディアはブータン政府はネパールとの継続的な対話をすべきとの主張を繰り返したが、それがかえって第三国定住への引き金となった。ネパール政府についても、ブータン難民を自国民とは捉えていなかった:148:29–30, 40。 アメリカ合衆国国務省は、難民キャンプ内の指導者に、概して帰還の見込みが薄いにも拘らず、偽の情報や脅迫によって再定住を妨害しようとする意図があることを明らかにした。
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