結成と闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 04:42 UTC 版)
1950年、すなわち吉田茂内閣により炭鉱国家管理が終了した年、炭鉱労働組合協議会が改組され、統一された産業別中央労働組合として日本炭鉱労働組合(炭労)が成立した。当時の組合員数は約29万人とされ、国鉄労働組合(国労)などと並んで日本労働組合総評議会(総評)の中核組合となった。炭労はレッドパージなどで日本共産党との関係を絶ったものの、占領軍の思惑からは外れ、その過酷な労働条件の改善の必要性や日本のエネルギー産業を支えるという自負から強力な闘争方針を立て続け、岡田利春などの社会党左派を支えた。1952年には、日本電気産業労働組合(電産)と共に賃上げ要求のストライキを実施し、63日間の長期闘争の結果、中央労働委員会(中労委)のあっせん案を受諾した。だがこれにはかねてから一山一家の意識が濃く労使協調を取る右派系の労働組合からの批判があり、当時の総評議長であった武藤武雄らの常磐地方炭鉱労働組合連合会を中心に炭労・総評から離脱し全国石炭鉱業労働組合(全炭鉱)を結成して、炭鉱労組は総評系の炭労と全労会議→同盟系の全炭鉱の並立が長く続くことになる。 1953年には福岡県大牟田市の三井三池炭鉱で三井三池争議の第1次争議が発生し、113日間のストライキにより指名解雇を撤回させる成果を挙げた。この強力な闘争は炭労組合員の妻などが参加する「炭婦協」によっても支えられ、「地域ぐるみ闘争」の基盤を築いていた。また九州大学教授のマルクス経済学者・思想家で、社会主義協会の中心人物でもある向坂逸郎が三井三池争議に深く関わり、炭労内部では社会主義協会系の活動家が多く生まれた。 1960年には三井三池争議の第2次争議が発生した。これはエネルギー革命により日本の基幹エネルギーが石炭から石油へ移行する中、存続には経営合理化が必要とした経営企業の三井鉱山が1959年に4580人の人員削減案を提示し、次いで12月に1278人の指名解雇を強行したことに対し、指名解雇は不当であり合理化は安全性の低下に直結するとした炭労が、解雇撤回を求めて全面ストライキに突入した争議である。これは同時期の安保闘争と連動しており、三井三池争議は会社側を支援する財界団体と組織の総力を挙げて支援した総評による「総資本対総労働の対決」と呼ばれたが、300日を超える長期闘争は、経営側と妥協した一部組合員の(全炭鉱系の)第二組合の結成を皮切りに事態は炭労に不利となり、中労委のあっせん案で指名解雇が事実上認められたことで炭労は敗北した。その結果、炭労はストライキ中の組合員への生活支援や指名解雇者への支援などで莫大な負担を強いられ、総評内部での発言力は大きく低下した。 1963年11月9日、三井三池三川炭鉱炭じん爆発事故が発生し、戦後最悪となる458人の犠牲者を出した。救出された労働者も多くが一酸化炭素中毒となり、認定患者となった839人の中には回復不能の脳機能障害など、労働災害により日常生活に重大な支障を残す者も現れた。これは経営側主導の合理化が炭鉱の安全性を損ねるという炭労の主張が現実化した事故でもあったが、自らもこの事故で多くの組合員を失った炭労は勢力を回復できず、衰退への道を早めた。
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