炭鉱国家管理問題
(炭鉱国家管理 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/24 01:51 UTC 版)
炭鉱国家管理問題(たんこうこっかかんりもんだい)は、1947年に成立した片山内閣が提案した臨時石炭鉱業管理法を巡る政争。
概要
片山内閣は、革新政党である日本社会党の片山哲委員長を首班する日本初の革新政権であり、政権の看板政策として、当時の日本のエネルギー産業の中核産業であった石炭を日本経済の生産復興の促進と日本国家自体の社会主義化の先鞭とする意図から、炭鉱の国有化を目指し、「私企業が期待された成績(年間3000万t)を上げえない場合には、その企業に対して必要な管理を実施する」大方針を掲げた。この施策は、水谷商工相が同年6月1日の就任会見で「石炭の国家管理だけは第一に実行したい」と抱負を語り、翌2日の閣議では炭鉱国家管理を承認する。経済安定本部・商工省などを中心として生産現場の国家直接管理と産業民主制(労使同数による生産協議会を経営決議機関とする)を中核とする「炭鉱国家管理要綱案」を作成させ28日に発表した。8月10日には与党党首会談で政府案の骨子が決定される。
しかしこれに対して、政権樹立時に「四党政策協定」を三与党と締結、事実上の閣外協力姿勢をとっていた日本自由党は、7月3日、党の石炭対策委員会が「すでに石炭復興会議で労使は一致して自主的な増産運動を展開しているのであり、このさい経営形態を変革するような暴挙は全く有害無益である」と批判する声明を発表。8月19日には党として上述の協定を離脱し、完全な野党へと転じる。
一方、社会党が頼みとする労組はというと、炭鉱系組合の内、比較的穏健な協調路線をとっていた総同盟系の日本鉱業労働組合(日鉱)にかわり、強硬派である産別系の全国炭鉱労働組合(全炭)が運動のイニシアティブをとるようになり、政府案をもって「国営化を確約せず、目の前の"3000万t"という目標を掲げているに過ぎない」と批判。7月24日、炭鉱労働組合全国協議会(炭協)の役員改選で執行部を抑え、官労使交渉の場であった炭鉱復興会議も機能不全に陥る。
更に、与党の一画を占めていた民主党でも、結党時からの芦田均総裁系と、幣原喜重郎名誉総裁系の対立が再燃する形で内紛が勃発。政府案骨子の決定直後、党所属国会議員の大半を占める90名が連判にて批判声明を発表。鉱山経営者層のロビー活動によって、労使代表によって構成される炭鉱生産協議会は、経営者の人事権を犯さない「諮問機関」とする、という玉虫色の修正が行われて9月25日に提出される。それでも国会審議は、自由党のみならず民主党の一部も審議妨害に加わり難航。最終的に生産協議会の諮問機関への格下げ(産業民主制導入撤回)、3年間の時限法制化などの修正を加えた修正案が国会閉会直前の12月8日成立したが、衆議院・参議院両院ともに「委員会否決・本会議成立」と言う異例な経過をたどった。
民主党幣原派で造反した者の内、首謀者7名が除名されるが、これに追随者も出て、最終的に幣原や田中角栄・原健三郎ら24名が離脱、同志クラブを結成して野党側に転じた。
その後、炭鉱経営者による政治工作において政治家に渡された金銭が賄賂にあたるとの疑惑が持たれ、田中角栄ら8名の政治家が起訴される疑獄事件へと発展した(炭鉱国管疑獄)。
参考文献
- 榎本正敏「炭鉱国家管理問題」(『国史大辞典 9』(吉川弘文館、1988年) ISBN 978-4-642-00509-8)
- 萩野喜弘「炭鉱国家管理問題」(『日本史大事典 4』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13104-8)
- 師岡佑行「炭鉱国家管理問題」(『社会科学大事典 12』(鹿島研究所出版会、1975年) ISBN 978-4-306-09163-4)
- 炭鉱国家管理問題のページへのリンク