結婚を巡って
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:42 UTC 版)
1931年(昭和6年)5月8日に旧対馬藩主・宗家の当主である伯爵宗武志(そう たけゆき)へ嫁いだ。 この縁談の出どころは不明である。朝鮮半島には本貫と姓を同じくする者同士は同族とみなされ、婚姻できない慣習がある。王公族は全州李氏のみで構成されているため、徳恵の結婚相手は、皇族、華族、朝鮮貴族、臣民(平民)に限定される。このうち、皇族男子が王公族と婚姻することは、明文化こそ見送られたものの禁止されていた。1931年時点で、朝鮮貴族のうち全州李氏ではない男子は、侯爵3名、伯爵2名しかおらず、うち徳恵と年齢が近い唯一の人物である李丙吉侯爵は既婚であった。これらの後継者を含めても、独身の適任者はおらず、朝鮮貴族を望むならば子爵以下と縁組するしかなかった。 一方の宗伯爵家は、武志の従兄重望が逝去した時点で莫大な借財があり、当時まだ中学生だった武志が伯爵家を継承することで篤志家の支援を受けて破産を回避していた。このような状況で、東京帝国大学を卒業したばかりの武志が、婚姻により経済基盤を得ようとしたのは自然な成り行きであった。義姉方子女王は、徳恵が発病して縁談が破談になることを心配していたが、武志は破談にしなかった。 夫妻は同年10~11月にかけ、対馬を訪問した。この際も、徳恵は「病的の挙動」を見せ、武志の育ての親にあたる平山為太郎は、武志の心中を慮って日記に無念さを記したが、離縁にまでは言及していない。李王家の予算は、徳恵の結婚の翌年に突如約1万6000円増額されており、差額の全部または一部が宗伯爵家への援助だと考えられている。 双方に事情はありながらも、武志は妻となった徳恵を深く愛し、2人の仲は睦まじく、1年後の1932年(昭和7年)8月14日に長女正恵(まさえ)が生まれた。 しかし少女時代から発症していた統合失調症は新婚時代にも症状が見られた上、正恵の出産後から更に症状は悪化の一途をたどり、終戦後の1946年(昭和21年)頃松沢病院に入院したと思われる。 その後、1950年(昭和25年)1月に韓国人新聞記者金乙漢が李垠家に続いて松沢病院を訪問し、徳恵の悲惨な現状を韓国に紹介し、彼女の帰国のための運動を始める。1955年(昭和30年)6月に武志は徳恵と離婚し、徳恵は母方の姓を名乗って梁徳恵となった。のちに、詩人でもあった武志は、愛妻徳恵との別離の深い痛みと悲しみを山幸彦と豊玉姫の離別譚に託した詩を綴っている。武志は日本人女性と再婚し、3子を儲けている。 1931年撮影、夫・宗武志と(対馬厳原にて) 1931年撮影、和服(振袖)姿
※この「結婚を巡って」の解説は、「徳恵翁主」の解説の一部です。
「結婚を巡って」を含む「徳恵翁主」の記事については、「徳恵翁主」の概要を参照ください。
- 結婚を巡ってのページへのリンク