結婚への反発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 05:31 UTC 版)
「(将来の皇后となる)皇太子妃は「皇族(臣籍降下後の旧宮家)か五摂家(伯爵以上)といった特定の旧華族に属する女性から選ばれる」ということが習わしとされており、「平民から妃を迎える」ということが考えられなかった時代で、1958年(昭和33年)の正田美智子の結婚は、旧皇族・旧華族らに強く反対された。 旧皇族久邇宮家出身で姑ともなる皇后良子(当時)は夏に、静岡県の御殿場に高松宮妃、秩父宮妃、松平信子らを招き、「東宮様の御縁談について平民からとは怪しからん」と当時の侍従と数時間懇談し、妃の変更を訴えたとされる。しかし11月の皇室会議では、猛反対をした一人であった秩父宮妃勢津子も賛成し、全員一致で可決した。 旧皇族の梨本伊都子は、明仁親王と正田美智子の婚約発表が行われた同年11月27日付の日記に、「朝からよい晴にてあたたかし。もうもう朝から御婚約発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。日本ももうだめだと考へた」と記している。ただ、この結婚に理解を示した義理の姪の配偶者(伊都子の夫梨本宮守正王の兄が久邇宮邦彦王であり香淳皇后の父)である昭和天皇の意向もあり、伊都子は以後は表立って批判することはなくなった。
※この「結婚への反発」の解説は、「上皇后美智子」の解説の一部です。
「結婚への反発」を含む「上皇后美智子」の記事については、「上皇后美智子」の概要を参照ください。
- 結婚への反発のページへのリンク