結婚の相手 文化九年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 05:42 UTC 版)
関長温魚沼郡 龍光村 庄屋 下村藤蔵 次男として、天明六年ころ生まれる。幼くして医を志し、吉水村の漢方医で御殿医でもある 関道順に養子入りした。長岡城に師匠とともに随伴したときに、奥村ます(のちの貞心尼)を見初める。ますは、かんざしを渡したという伝承が残されている。こうして、武家娘と漢方医という身分差のある結婚により、ふたりは龍光村 下村家で挙式し、吉水の師匠のところへゆき、その後、小出嶋村に行った。(小出郷新聞「小出と貞心尼」) 貞心尼が出家する前に嫁いだと言う、北魚沼郡小出町在の龍光村(目下、堀の内村)医師某とはどんな人か、…同字区長 下村東作氏から懇篤なる御返事を頂いた…。「…実は、自分の家は、明治の初年より不幸続出、相続人が大抵短命で私も廿歳頃父と別れる等の関係で、…僅かに残って居る記録を…たどるより外ありません。 一透了関居士(六代 清右衛門弟 医業) 関 長 温 始同郡吉水村医 関道順の養子となり其後小出島に開業 文政十亥二月十四日小出島に於て卒す。 …年頃と言い、医師、小出島、龍光等を綜合して来ると、此の関長温の家内が貞心尼らしく思われます。幼少の頃養家にいったらしく、…私の家で今でも年忌も行い、霊会日鑑にも載って居る処から見ますと、或は嗣子もなく養家にも骨は納まらぬのではなかったかと想像されます。…漢方医者の色々の道具が私の土蔵にあって、私共兄弟が幼少の頃玩具にして遊んで大抵壊してしまった様であります。夫等から見ると死歿すると同時に業をやめ…。序ながら六代清右衛門の家内は長岡藩士木村儀右衛門娘とあり、法名密藏院解脱妙海大師とあります…。…一月三十日 下村東作 」 — 上杉艸庵 、「貞心雑考」中村昭三編『貞心尼考』1995, pp. 51~54
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