結婚の破綻とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 19:25 UTC 版)
「タマラ・ジェーワ」の記事における「結婚の破綻とその後」の解説
バレエ・リュスに入団した頃から、バランシンとジェーワの関係は急速に冷え始めた。ジェーワにとって、バレエの世界はあまりにも狭く、退屈で居心地の悪いものであった。彼女は外の広い世界を見て、さまざまな体験を通じて生きているという実感を得たいと願うようになった。 ジェーワにとっては、バランシンがバレエ・リュスでの生活に満足していることもいら立ちの種となっていた。彼女が「今夜は何をする?」と尋ねると「なぜ何かしなくちゃいけないんだい」という答えが返ってきて、それが口論に発展した。ときには、かっとなったジェーワが衝動的に飛び出していくことすらあった。 一説では、バランシンがジェーワに興味をなくし、ダニロワに恋をしたことが破局の原因とされる。ジェーワはバランシンから「もうきみを愛していない」と告げられて絶望したという。 2人の結婚は、1927年の夏に破局を迎えた。ジェーワはバランシンの元を去り、当時名の売れていたヴォードヴィリアン、ニキータ・バリーエフ(英語版)率いるレヴュー一座「レ・ショーヴ・スーリ(こうもり劇団)」(en:La Chauve-Souris)とともにアメリカ合衆国に渡った。破局を迎えたといっても、2人の間柄は険悪なものとはならなかった。ジェーワがレ・ショーヴ・スーリに入団することを聞いて、バランシンは彼女のためにいくつかのソロでの踊りを振り付けている。 美貌の彼女は、ブロードウェイ・ミュージカルとハリウッド映画、後年にはストレートプレイに進出して活躍を続けた。後にアメリカでバランシンと再会し、さすがによりを戻すことはなかったものの彼が振り付けた『オン・ユア・トウズ』(1936年)に主演して大成功を収めた。 バランシンとの離婚後、ジェーワは2回結婚した。1回目は俳優のカパ・ダビドフ(1897年-1982年)、次は同じく俳優のジョン・エメリー (en) (1905年 –1964年)である。1972年には、自伝『スプリット・セカンズ』を著した。ジェーワは1997年にマンハッタンで死去している。
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