紺糸裾素懸威胴丸は「女性用の鎧」ではないという指摘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 15:10 UTC 版)
「鶴姫 (大三島)」の記事における「紺糸裾素懸威胴丸は「女性用の鎧」ではないという指摘」の解説
上記の通り、紺糸裾素懸威胴丸については、三島安精が『海と女と鎧 瀬戸内のジャンヌ・ダルク』を発表して以降、大山祇神社側により鶴姫が使用した女性用の鎧であると主張されるようになった。しかし、この説はあくまでも三島個人の思い付きによるもので、確実な記録や厳密な研究に基づいて導き出されたものではない。紺糸裾素懸威胴丸を着用した鶴姫の肖像を描き、「鶴姫伝説」の広まりを結果的に促進することとなった笹間良彦にしても、後に発刊した自著において同鎧を鶴姫が着用した女性用の鎧として紹介しているが、その説明の多くは三島の見解に依拠しており、笹間自身は同説を支持していながら、「直感」よりも具体的・論理的な論拠を特に示しているわけではない。 これに対して、笹間と同じく日本甲冑の研究家ではあるが、山岸素夫や藤本正行は、そもそも中世(室町から戦国時代)の日本で作られた甲冑の中に女性用のものは見られないということを指摘している。 とりわけ山岸は、室町時代末期に山城での攻防を中心とした徒立(徒歩)戦が一般化したことにより、徒立戦用の鎧である胴丸や腹巻には様々な工夫や形状の変化が施されるようになったということを、実際の甲冑遺品を多数調査した上で解き明かしている。それは、鎧を着用した将兵の活動や歩行の便の向上をはかるため、胴の胸回りを大きめに張り出して胸部に間隙を設けることで呼吸を楽にし、胴裾を腰骨に乗せるように細くすぼまった形に仕立てることで肩にかかる胴の重量を分散させ、長時間の甲冑着装に耐えうるよう疲労を減らすことを目指したものであった。つまり、室町時代末期の甲冑の胴は、敏捷に活動するために誇張した胸部と引き締まった腰部を備えた、軽快な逆三角形状の胴へ変化する傾向にあったのである。腰回りから大腿部にかけてを防御する草摺の間数も、それまでの定数は7間ないし8間だったのが、室町時代末期には9間・10間・11間とより細かく分割して足さばきを良くするようになった。これらの特徴は、紺糸裾素懸威胴丸と同じく室町時代末期に製作された他の遺品にも現れている。 山岸は以上の指摘に加えて、大鎧・腹巻・当世具足など、一般に男性用とされる様々な甲冑を女性に試着させる実験を行ったが、いずれも問題なく着用できた結果をも挙げ、紺糸裾素懸威胴丸は三島安精ら大山祇神社側が主張するような「女性用の鎧」ではなく、室町時代末期の特徴が顕著に表れたものと理解すべきであると結論付けた。さらに彼は、(三島が考えたように)胸部が膨らみ腰がすぼまった胴の形をもって当該の鎧を女性用であると推定することについては、そうするならば室町時代末期の甲冑はすべて女性用になってしまうと批判し、それは「甲冑を知らぬ者の言である」と否定的な評価を下している。 上記の山岸の批判を補う形で、鷹橋忍は「欧米化した女性ファッションに馴染んだ現代人の感覚をもって「婦人物」(レディース)と断じるのは、些か性急に思える」と述べている。その他、漫画家活動の傍ら歴史研究をも手がける本山一城も、大山祇神社宝物館を訪れた際のできごととして、「鶴姫の鎧」の話を信用した見学客が、展示してある別の室町時代後期の甲冑数点を指して、ここにもあそこにも女性用の鎧があると叫んでいたのを見かけたという話を『刀剣春秋』紙上に紹介して、神社の言説を問題視している。 なお、江戸時代の大名家の一部においては、婚礼調度品の一つとして女性のための甲冑がまれに製作されたことがある。それらは基本的な構造が通例の男性用甲冑と変わらず、実際に着用されたかどうかも不明な、形式的なものでしかないが、彦根藩主井伊家伝来・弥千代所用の朱漆塗色々威腹巻(彦根城博物館所蔵)や松代藩主真田幸貫の正室・雅姫所用の魚鱗胴畳具足(真田宝物館所蔵)などをはじめいくつかが現存している。その点からも大山祇神社による「紺糸裾素懸威胴丸は日本に現存する唯一の女性用の鎧である」という主張は正確ではない。
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