第46装甲軍団 (第2軍)
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「ユーゴスラビア侵攻」の記事における「第46装甲軍団 (第2軍)」の解説
ドイツ空軍が4月6日に攻撃を開始したとき、ドイツ第2軍は丁度ユーゴスラビア北方の国境で戦力を集結させている最中であり、予定されていた作戦の開始は4月10日へと遅らされた。彼らの作戦開始時期の遅れを取り戻すための努力の1つとして、いくつかの第2軍の部隊は国境沿いに目的を限定した攻撃を開始することによって作戦開始までの一時的な時間を利用した。部隊の指揮官は彼らの部隊が大きな戦闘を早まって起こさないために制御せねばならなかった。そしてそのことはその後の軍隊の行動の自由を損なわせ、作戦の指揮を危うくさせたかもしれなかった。 陸軍総司令部は第46装甲軍団が受け持つ地域の主要な橋を無傷のまま確保することを決意していた。したがって、既に4月1日という早い時期には、部隊はBaresの橋とコプリヴニツァ(Koprivnica)の10マイル北方にある鉄道橋を確保し占領するようにとの命令を受けていた。 4月6日の夕方頃までには、敵軍の抵抗の不足と全体の状況はユーゴスラビアが国境沿いに置いて断固とした姿勢をとらないであろうということを示しており、第46装甲軍団はムルスコ・スレディシュチェ(Mursko Središče)、レテニャ(Letenya)、ザーカーニ(Zákány)、バーチ(Barcs)においてムール川とドラーヴァ川の全域で橋頭堡を確保するようにとの命令を受けた。いくつかの局地的な攻撃の実行は、敵軍の兵士達の間で不和を生み出すのには十分なものであった。この地域の防衛を受け持っていたユーゴスラビア第4軍の部隊の兵士は、クロアチア人の割合が高かった。クロアチア人の兵士はドラヴァの突出部のいくつかの地点で反乱を起こし、彼らがセルビア人の抑圧からの解放者と見なしたドイツ軍への抵抗を拒絶した。4月10日の朝、強力なドイツ軍がBaresのドラヴァ橋を渡り、以前に確立した橋頭堡から抜け出したとき、対峙するユーゴスラビア軍の崩壊はより深刻な段階へと向かっていた。強力な航空支援に援護され、第8装甲師団とそれに続く第16自動車化歩兵師団を主力とする第46装甲軍団は首都ベオグラードを目指し、攻撃をドラヴァとサヴァ川の間にかけての南東部へ仕掛けた。 第8装甲師団は、ほとんど抵抗らしい抵抗を受けないまま快調に進撃し、悪天候や舗装が不十分な道路にもかかわらず同日の夜10時までには師団の先鋒がSlatingに到着した。敵の孤立した軍団は速やかに掃討され、師団はオシエクを通って首都へと進撃を続けたが、道の状態は更に悪くなっていた。 敵がますます苦境に陥り、必死になっていたことはドゥシャン・シモヴィッチ(Dušan Simović)大将が彼の率いる部隊に放送した次の演説からも窺い知ることができる。 "全ての兵士は、たとえ何処で敵と遭遇しようとも、自らの裁量の上でいかなる手段を用いても敵と交戦せねばならない。上からの直接の命令を待つのではなく、諸君が自らの判断、イニシアティブ、分別に導かれて行動しなければならない。" 4月11日には、第16自動車化歩兵師団がクロアチアのナシツェ(Našice)を越えて更に進んでいるとき、第8装甲師団はオシエクに到着した。両師団に与えられた任務は第14装甲軍団と対峙しているユーゴスラビア軍の側面を突き、また早期に第1装甲集団との連絡を確立することであったが、多数の破壊された橋と状態の悪い道路は両方の師団の進撃速度を遅らせた。 4月12日の午前2時30分、サヴァ川にかかる2つの極めて重要な橋が無傷で確保された後、第8装甲師団はMitrovicaに突入した。師団は攻撃を続け、ベオグラードから約20マイル南のラザレヴァツ(Lazarevac)へと進撃した。そこは第1装甲集団との連絡地点として指定された場所であった。 4月12日の午後に第46装甲軍団は新たな命令を受けた。この命令によると、第8装甲師団だけがベオグラードの西の郊外に近いサヴァ川の安全を確保するために東方への攻撃を続けることになっていた。18時30分に、師団の主力は南東へと向かい、ベオグラード南西の第1装甲集団の左側面部と連絡を確立するためヴァリェヴォ(Valjevo)方面へ進出した。 同時に、第8装甲師団に後れを取っていた第16自動車化師団は南へと向きを変え、サヴァ川を渡ってズヴォルニク(Zvornik)へ進出した。このように、両師団は後のサラエヴォへの攻撃に参加するため、元々の目的であったベオグラードからは転進させられた。 一方で、第2軍と陸軍総司令部はベオグラード陥落のニュースを心待ちにしていた。3つの集中している機甲部隊のうち、第XLI装甲軍団が首都に最も近いと最終的に報じられており、首都から約10マイルのドナウ川東岸のパンチェヴォ(Pančevo)に到着していた。ベオグラードの南での抵抗は第一装甲集団の先鋒である第11装甲師団が首都の近郊に進出してきたため、強固になっていた。
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