第1装甲集団 (第12軍)
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「ユーゴスラビア侵攻」の記事における「第1装甲集団 (第12軍)」の解説
4月8日の朝早く、第一装甲集団はソフィア北西の集結地点から進軍を開始した。ピロト(Pirot)近郊の国境を通過した第14装甲軍団は第11装甲師団が先導し、第5装甲師団、第294歩兵師団、第4山岳師団が後に続いて北西のニシュの方面に向かって進軍した。悪天候、多数の路上障害物、ユーゴスラビア第5軍の激しい抵抗にもかかわらず、強力な砲兵隊と空軍の効果的な援護を受けた第11装甲師団は速やかに前進し、敵の防衛線を僅か1日で突破した。ユーゴスラビア陸軍の司令官は、自軍にモラヴァの背後へと撤退するよう命じるほど、この最初の戦闘におけるドイツ軍の成功に強い衝撃を受けた。この撤退は、4月9日という早い時期にドイツ軍の戦車がニシュへと突き進み、すぐにベオグラードへ向けて進撃を続けたため、時期を逸する形になってしまった。ニシュ北西からは、ドイツ軍にとって地形はより好ましい物となった。モラヴァ谷を機甲部隊が縦隊で首都ベオグラードまで続けて進軍することができたのである。 パラチンの南とクラグイェヴァツの南西で、ユーゴスラビア第5軍はドイツ軍の進撃を止めようと試みるが、いくつかの激しい戦闘の後に総崩れとなり、ユーゴスラビア軍は5,000人以上の捕虜をこの僅かな期間に出す結果となった。 一方で、第5装甲師団はピロト近郊の状態の悪い道路の影響で一時的に遅れをとった。再び進軍を開始した後、師団は、ニシュの南方へと転進しLeskovac周辺の敵軍を殲滅するようにとの命令を受けた。ニシュ方面の前線でユーゴスラビア軍が崩壊寸前であることが明らかになると、第5装甲師団は第12軍の直属に戻され、ギリシャ戦線のために第40装甲軍団へ加わった。 4月10日、第14装甲軍団はモラヴァ谷を通って順調に前進しており、首都へと退却する敵軍の部隊を近距離で追跡していた。翌日、ドイツ軍の先鋒は突然、退却中のユーゴスラビア第6軍の南の側面部隊に攻勢を掛け、4月12日の早い時間帯のうちにこれを壊滅させた。その日の夜までに、第1装甲集団はベオグラードから40マイル以内の位置にまで進出した。彼らが遭遇した2つのユーゴスラビア軍の部隊は、最早ドイツ軍の進撃を遅らせるいかなる手段をも持っておらず、ドイツ軍がユーゴスラビア領に侵入した地点から現在地に至る125マイルにも及ぶ連絡線を遮断する手段もまた、一つとして持っていなかった。
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