第1船:エリザベス号
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「アメリカ植民地協会」の記事における「第1船:エリザベス号」の解説
1820年1月、第1船エリザベス号が3人の白人協会職員と88人の移民を乗せてニューヨークを出港し西アフリカに向かった。協会はアメリカ人奴隷の自由を購い、リベリアまでの渡航費を賄った。移民は既に自由だった黒人にも提案された。 最初の遠征は米国聖公会牧師サミュエル・ベイコンの指導で、小さな商船エリザベス号を使って行われた。持ち込んだ物品としては荷馬車、手押し車、鋤、製材機械と製粉所のための鉄製部品、大砲2門、マスケット銃100挺、火薬12樽、釣り具および小さな艀があった。ジェームズ・モンロー大統領は海軍長官に命じてスループ・オブ・ウォーUSSサイアンにアフリカまでエリザベス号を護衛させた。エリザベス号に乗った86人の移民のうち、約3分の1が男性であり、残りはその妻と子供達だった。 この船は先ずシエラレオネのフリータウンに到着し、続いて南行して今日のリベリア北海岸に向かい開拓地を設立する努力を始めた。3週間以内に黄熱病のために白人3人全てと移民の22人が死んだ。残った者はシエラレオネに戻り次の船を待った。ノーチラス号は1821年に2回航海し、パーセビアランス(忍耐)と名付けた島のケープ・メスラドに開拓地を造った。初期開拓者はほとんど自由の身分で生まれた黒人であり、奴隷制の中では生まれていないがアメリカ市民の完全な権利までは否定された者で、難しい仕事だった。 アフリカの先住民は開拓地の拡大に抵抗し、多くの武装紛争に発展した。それでも、その後の10年間に2,638人のアフリカ系アメリカ人がこの地域に移民した。またこの植民地は奴隷船から捕獲し解放された奴隷を受け入れることで合衆国政府と合意した。 協会は新しい植民地のために地元の種族指導者に土地を売らせようとしたがあまり成功せず、アメリカから渡った最初の88人の自由黒人開拓者はシェルボ島に置いておかれた。
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