福音主義運動としての宗教改革
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「福音主義運動としての宗教改革」の解説
「騎士戦争」および「ドイツ農民戦争」も参照 ルターの宗教改革は福音主義運動という性格を濃厚に有しており、その教義は彼個人の思想を超えてはるかに複雑な様相を呈した。このことは、一つには聖職者に対する失望と幻滅の長い歴史の産物でもある、一般信徒における根深い反聖職者主義が援用されたことにも由来している。聖職者たちは偽善、暴君的行為、詐欺を働き、あるいは一般信徒の宗教心を食いものにし、不当な報酬請求や不必要な取り立てで人々を困窮させているという理由から攻撃の対象となったうえ、「福音の敵」すなわち悪魔の同盟者として描かれ、その最たるものがローマ教皇とされた。教皇は悪魔の目的のためにドイツの人々を搾取し、地理的にも形而上学的にも「外部の人」とされた。逆にいえば、俗人は救いのためにもはや聖職者を必要とせず、キリスト教徒は個人において聖書を通じて神と直接出会い、救いを自由に得られることでもあった。 1520年、ルターは宗教改革の三大文書、『教会のバビロン捕囚』『キリスト者の自由』『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える書』によって改革の理論と実践を固めた。とくに『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える書』では、ドイツの諸侯に対し、その職務に基づいて改革運動に加わるよう呼びかけたため、結果的に政治への関与を促した。ローマ教皇レオ10世は1520年6月、ルターの教説を批判する勅書を発布したが、ルターはこれを公然と火中に投じ、1521年1月には上述したようにレオ10世から破門された。ルターをかくまったフリードリヒ賢公は神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)と交渉し、皇帝の保障する安全通交証のもとにヴォルムス帝国議会でルターを査問させることとした。 1521年4月17日、ヴォルムス帝国議会で査問を受けたルターが主張の撤回を拒否して「私はここに立つ」とその決意を述べたことは、よく知られている。皇帝カール5世は1521年5月26日、ヴォルムス勅令を発し、ルターとその教説に従うこと、その著作を印刷または頒布することを禁じ、ルターを異端者として処罰すること、彼の逮捕に協力した者に報酬を与えることなどを伝えた。 しかし、宗教改革は決してルター個人によって担われたわけではなかった。上述したエラスムスやジャック・ルフェーヴル・デタープルといった人文主義者は活発に聖書の翻訳や解釈に勤しみ、宗教改革の温床となった。宗教改革が「エラスムスが卵を産み、ルターがそれを孵化した」といわれる所以である。すでに宗教改革を予告するような思想を表明していたエラスムスはローマ教会の外形的な儀式などはどうでもよいものとして退け、当初はルターに対しても好意を示していたが、「自由意思」の問題をめぐって鋭く対立した彼からの反論もあり、1524年には決別した。後述するフルドリッヒ・ツヴィングリ、一時期ルターを支持するがのちにツヴィングリのもとに逃れるウルリヒ・フォン・フッテン、ルターの思想の体系化に尽力したフィリップ・メランヒトンのほか、ヨハン=エバーリン・フォン・ギュンツブルク(英語版)なども大きな役割を果たした。ルターのもとに集まった人々のもと、メランヒトンはルターとほぼ同じ路線で改革を進めたが、聖職者の独身制を廃止し、より簡素なミサを始めたヴィッテンベルクの教授アンドレアス・カールシュタット(英語版)はルターと対立するまでとなり、さらに「すべての聖職者を殺せ」と主張するツヴィカウ急進派なども出てきた。「ツヴィカウの預言者」と呼ばれる一群のこうした過激な行動を、ルターは抑えようとしている。 1522年、ルター支持の困窮する騎士階級・貴族階級の人々がフッテンらによる指導のもとで蜂起し、ドイツの自由と真の信仰の実現を求めて各地で戦闘したが、1年後には鎮圧された。これが「騎士戦争」である。また、「ツヴィカウの預言者」のひとりであるトマス・ミュンツァーは、大胆な社会変革なしに宗教上の改革は実現不可能だとして立ち上がり、これに共鳴した貧農が大規模な農民一揆を起こし、ミュンツァーに指導されてドイツ農民戦争(1524年-1525年)に発展した。ここでは、農民たちによって牧師を自由に選択する権利、教会税の軽減、農奴制の廃止が要求事項として掲げられた。当初、ルターは農民に同情的だったが、現世の国のことは世俗権力に委ねるべきだとし、戦闘をやめない農民を「狂犬」と呼んでシュヴァーベン同盟軍による農民鎮圧に加勢した。ミュンツァーとルターの対立は決定的となり、ルターはミュンツァーを「アルシュテットの悪魔」と呼び、ミュンツァー側は諸侯に対して妥協的なルターを「うそつき博士」と罵倒した。
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