中華義荘
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中華義荘(ちゅうかぎそう)は、横浜市や神戸市にある華人・華僑系の共同墓地。開設当初は仮埋葬所であり、棺の仮安置場所としての性格が強かった[1]。
- ^ a b c d e f 松尾恒一「日本華僑の共同墓地と后土・土地神の考察 : 日本国内の華僑霊園の地域差に注目して」『国立歴史民俗博物館研究報告』第199巻、国立歴史民俗博物館、2015年12月、213-232頁、CRID 1390009224089830016、doi:10.15024/00002264、ISSN 0286-7400。
- ^ 鍋島直身『神戸名勝案内記 』日東館、1897年、P55
- ^ 鍋島直身『神戸名勝案内記 』日東館、1897年、P88
- ^ a b “貿易の街育てた友好 「落地生根」神戸と華僑(1)軌跡”. 日経新聞 (2015年10月6日). 2020年9月1日閲覧。
- ^ “一般社団法人中華会館公式サイト - 中華義荘”. 2020年8月31日閲覧。
神阪中華義荘
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神戸の開港は1868年(明治元年)で、この年の6月に長崎より数10名の華僑が神戸を訪れ、秋までには240名の華僑が居留するに至る。最初は雇用主の西洋人についてきた理髪、洋服仕立て、コックの「三刀業」が多く、洋風文化を広める役割を果たした。20年後の1887年(明治20年)までに、神戸栄町に南京町が形成され、彼らの交流の拠点として1893 年(明治2年6)に中華会館が建てられた。中華会館は戦災による消失、再建を経て現在まで続き、終戦後は三江・台湾・福建・広東の5地域出身者の協同体制により運営されている。中華義荘は開港後の1871年(明治4年)に兵庫県が600坪の土地を貸与し、宇治野村(現在の神戸市中央区中山手7丁目)に開設される。1873年(明治6年)さらに1627坪の土地を購入して共同墓地「中華義荘」となる。当初は中国から日本に来て客死し故郷に帰葬するすべのない者を埋葬していた。かつて神戸測候所の西にあり、南京墓と通称されていたが、1924年に現在の神戸市長田区の海の見える高台である林田区長田村(現在の長田区滝谷町1丁目9-1)に移転した。敷地内に『清國孩童総墓』などがある。運営は関帝廟なども管理する一般社団法人中華会館。 上述のように華僑の神戸移住後、間もなく共同墓地が開設されたが、中国からの最初の渡来者である1世は、特に祖国への望郷の思いが強く、その遺体は生前の彼らの意志により、故郷に還されることが多かった。その棺を乗せた船は「帰還船」と呼ばれ、年に2回、日本より故郷に帰った。そのため中華義荘はあくまでも仮埋葬所であり、当初は棺の仮安置場所としての性格が強かった。しかし、経済的な理由等により、その思いを果たせない者も多く、また日本生まれの1世、2世を始めその子孫の代では望郷の念はさほど強くなく、関西華僑の多くは死後、中華義荘に埋葬され、清明節等、家族を中心とした親族の先祖祭祀の場となってゆき、1980年には霊棺の安置小屋も解体撤去された。現在、永代墓地として約1000基を数える。
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