磯間岩陰遺跡とは? わかりやすく解説

磯間岩陰遺跡

名称: 磯間岩陰遺跡
ふりがな いそまいわかげいせき
種別 史跡
種別2:
都道府県 和歌山県
市区町村 田辺市
管理団体
指定年月日 1979.12.18(昭和54.12.18)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: S54-12-037[[磯間岩陰遺跡]いそまがんいんいせき].txt: 磯間岩陰遺跡は、和歌山県西南部、紀伊水道面した田辺湾の最奥部にある。この地域は、第3紀丘陵海岸近くせまって複雑なリアス式海岸形成し河川堆積とそれに伴う砂浜形成によって陸化したかつての島々半島の崖面には、多数海食洞窟が残されている。磯間岩陰は、現在の海岸線接した南北200メートル東西幅約50メートル比高20メートル軟質砂岩からなる独立丘陵西面にあり、前面幅約23メートル奥行約5メートル、高さ約5メートル規模をもち、この付近では最も大きな岩陰である。
 昭和44年所有者宅地工事伴って多量土器鹿角製品人骨等が出土したため、翌45年3月田辺市教育委員会帝塚山大学考古学研究室による緊急調査が行われた。
 調査結果岩陰内部テラス状の石の上つくられ石室8基と火葬跡5か所が発見された。これらの遺構岩陰風食による細砂堆積おおわれていたが、各石室のいずれにも封土のあった形跡認められず、本来岩陰内にむき出しの状態であったものと考えられる。8基の石室はいずれ竪穴式石室形態をとるものであり、副葬品内容から5世紀末から7世紀前半にかけて営まれたものと考えられる
 最大1号石室は、長さ2.9メートル、幅0.7メートル、高さ0.7メートル規模をもち、石室内部には、60歳前後老人幼児の2体が向きあいで埋葬され副葬品として、直弧文装飾をもつ大小口の鹿角装の鉄剣、鉾、鏃等の武器と、鹿角製の鳴鏑釣針鉄製釣針土師器等を納めていた。石室外にも鉄製銛、鹿角組合釣針土師器須恵器等の副葬品置かれていた。1号石室以外の2号4号石室においても、2体~4体の合葬例が確認されており、この時期合葬資料として注目される。最も規模小さ5号石室は、長さ幅とも1.0メートル、高さ0.3メートルで、右足親指貝輪をつけた6歳くらいの幼児1体埋葬していた。6世紀末~7世紀前半7号石室には人骨遺存はなかったが、石室内の上2層わたって120個以上の須恵器副葬していた。また、5か所の火葬跡のうち最も古い1・2火葬跡では、生焼け人骨とともに金銅耳環6個が出土しており、7世紀遡る火葬例として注目すべきものである
 同一岩陰内に、8基の石室をつくり、同一石室内に数体合葬したこの岩陰墓の性格については、石室出土13体の人骨詳細な分析待って判断すべきであるが、1号石室副葬され鹿角装の剣・鉾等の武器と、鉄製あるいは鹿角製の銛・釣針等に代表される漁撈色彩の強い副葬品内容から前期から中期にかけて永く古墳文化空白地帯であったこの地域に、5世紀になって登場した漁撈集団首長とその一族墓地とみてほぼ誤りないであろう
 この岩陰墓の構造は、古墳時代中後期墓制として、他にほとんど例のみられないものであり、その優れた副葬品内容とともに古墳文化波及伴って形成された最も地方色明瞭な墓制一例として、重要なのである
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磯間岩陰遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/17 03:02 UTC 版)

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磯間岩陰遺跡。2018年9月22日撮影。
地図

磯間岩陰遺跡(いそまいわかげいせき)は、和歌山県田辺市磯間に所在する古墳時代の岩陰内集団墓である。

1979年昭和54年)12月18日、国の史跡に指定された[1]。出土品一括は「和歌山県磯間岩陰遺跡出土品」の名称で1988年(昭和63年)6月6日、国の重要文化財に指定されている[2]

概要

本遺跡は、海岸に突き出た独立丘陵[3]の崖下にある海食岩陰遺跡である。海食洞の規模は、前面幅約23メートル、奥行き5メートルである。

1969年(昭和44年)11月に、岩陰内で遺物が発見された。これがきっかけとなり、1970年(昭和45年)3月から発掘調査が行われた。 発掘調査で、古墳時代中期の終わりから後期にかけての石室墓であることが判明した。 そのなかの第1号石室の被葬者は漁撈集団の首長とその一族と考えられている。

また磯間岩陰遺跡の位置する田辺市域は、石室古墳の盛んな畿内・紀伊の文化と古墳の希薄な(墳丘を作らず砂浜に埋葬する)熊野の文化との境界になる。このことから、磯間岩陰遺跡および立戸岩陰遺跡について両地域の接触領域の墓制として理解する説が挙げられている[4]

埋葬施設・出土品

出土品(複製)
和歌山県立紀伊風土記の丘企画展示時に撮影。

1969年(昭和44年)には、人骨や須恵器など発見され、翌年には、人骨は13体であり、合葬または追葬されており、火葬墓などを含む岩陰墓であることが分かった。埋葬施設は5世紀の終わり頃から6世紀後半までの竪穴式石室を模した石室であり、8基つくられていた。 第1号石室は岩陰のほぼ中央部に造られ、長辺の長さ約2.16メートル、幅約70センチメートル、高さ約50センチメートルで、石材は、紀ノ川流域で採掘された緑泥結晶片岩砂岩質の石と板石とが使われ、天井石は4枚である。内部には男性人骨[5]と幼児人骨が埋葬されていた。

副葬品の中に優れた鹿角製装具鉄剣が二振り分、同釣針、同銛、同鳴鏑(なりかぶら)などがあった。

脚注

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  1. ^ 文化遺産オンライン
  2. ^ 文化遺産オンライン
  3. ^ 東西50メートル、南北200メートルの第三紀の軟質砂岩からなる。
  4. ^ シンポジウム南海道の原風景 発表資料集 (PDF) 公益財団法人和歌山県文化財センター、2020年、p. 49。
  5. ^ 年齢50さほどと推定されている

参考文献

  • 堅田直「磯間岩陰遺跡」/文化庁文化財保護部史跡研究会監修『図説 日本の史跡 第2巻 原始2』同朋舎出版 1991年 ISBN 978-4-8104-0925-3

関連項目

外部リンク

座標: 北緯33度43分15.8秒 東経135度22分59.9秒 / 北緯33.721056度 東経135.383306度 / 33.721056; 135.383306




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