研究河川の選定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 05:05 UTC 版)
1950年(昭和25年)に水産庁が京都府に委託し、府から依頼を受けた京都大学理学部生態学講座の宮地伝三郎主体による日本国内では初のアユの生態研究が行われた。戦後の食糧難対策として、1949年12月に漁業法が改定され、漁業権に魚族を保護し増殖を図る義務が加えられたことを受け、自然水域のなかでの面積あたりの生産速度としては桁外れに生育の早いアユに着目し、養殖増産を図るための放流基準密度策定事業によるものである。京都府のほかにもいくつかの都府県が研究を委託され、おもに春に放流されたアユと夏に漁獲したときのアユを比較する研究が行われたが、梅雨時の増水などで別々の区画に放流したアユが混ざってしまうなど、好ましい結果につながらなかったという。 水産庁の打診の翌年、1951年(昭和26年)度から調査を開始した京都府は、京都大学に協力を依頼し、宮地の研究グループがこれを受諾した。当時の日本の主要河川の「漁業・養殖業漁獲統計表」によれば、アユの漁獲量は他の淡水魚よりも量にして2倍以上、市場価格にして8倍以上の価値があり、漁獲量では淡水魚全体の4分の1、市場価格では半分を占めており、川の生産性を研究するにあたり真っ先に取り上げるべき魚種と判断されたためである。 研究対象として京都府内河川のうち北端の宇川が選ばれた理由は、①天然遡上アユを扱えること、②流域面積570万平方メートルと調査に手頃な大きさであること、③河口から約1キロメートル地点に灌漑用の小さな堰があり、川の端に設置した魚道を通過するアユの数さえ把握すれば上流に遡上したアユの数が把握できる、という利点3つによる。アユ漁の解禁日が7月中旬と遅く、漁獲の影響を考えずに調査可能な期間が長かったことや、解禁日の漁をほとんど地元住民がやるため漁獲量の調査が容易であるのも好都合であった。 1955年(昭和30年)からの宇川での研究に先立ち、宮地ら京都大学の研究グループは、研究初年の1951年(昭和26年)は献上アユの名所として古くから知られた山国町の上桂川で、翌1952年(昭和27年)は鞍馬川で、いずれも放流アユで調査を行い、1年をおいて1954年(昭和29年)度には、漁協の組合長らの推薦を受けた10ほどの河川を調査した結果、上桂川と、由良川の上流域にある牧川に腰を据えて調査を行った。その結果、アユの生活場所である瀬と淵の研究をさらに深めなければアユとその食べ物との量的関係を明らかにできないと考え、1955年(昭和30)度には様々な淵でアユの生活を観察することが委託研究グループのテーマとなった。この決定に対し、この年から新たに研究を引き継ぐことになっていた京都大学大学院生(当時)の川那部浩哉と原田英司は、グループの研究史は数年にわたっていても個人の研究史はこれから始めるところであるとしてアユの自然史から研究することを主張し、委託研究グループの目的と折り合いをつける形で、「天然アユが海から遡上し死ぬまでの間、その川のいろいろな淵を、いつどのように利用するか」を調査することとなった。宮地、川那部ら研究グループが京都府内15本ほどの河川を調査してまわった結果、天然アユが遡上する等の前述の条件を満たし、砂防工事などによって下流が汚染されていなかった宇川が調査河川に選出された。
※この「研究河川の選定」の解説は、「宇川のアユ」の解説の一部です。
「研究河川の選定」を含む「宇川のアユ」の記事については、「宇川のアユ」の概要を参照ください。
- 研究河川の選定のページへのリンク