研究の執筆と発表・功績
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1939年(昭和14年)11月、上海方面の第三艦隊(旗艦「出雲」長谷川清司令官)の命により、上海特別陸戦隊本部において、抜刀術研究の整備が完了する。これ以後に高山は帰国し、1940年(昭和15年)、雑誌に「武道改革所見」を発表した。またこの頃より、支那事変の戦訓を基に開発された、「高山刀」と称される軍刀を、岐阜県関の刀工を指導し、作刀させる。 以降、舞鶴海兵団や海軍兵学校等で講演、実技を演武公開すると、海軍機関学校が高山の白兵抜刀術を採用した。更に、1940年(昭和15年)5月5日、大日本武徳会京都全国大会において「高山流白兵抜刀術」の流名で、舞鶴海軍によって公開された。 同時期、陸軍内でも高山の刀法理論を採用するかどうかが検討され、同年5月19日、松井石根大将、中島今朝吾中将、石原中将の推挙により、陸軍戸山学校校長田中久一中将のもとで検討される。9月20日には、中山博道範士の上申に基づき、陸軍大臣官邸において、大日本武徳会会長林銑十郎大将、松井石根大将、田中久一校長らによって高山の刀法が審議され、採用されることが決定する。 同年10月18日には、陸軍大臣東条英機より採用が承認され、高山は、陸軍からは終身教官をもって遇することを口達された。11月には、陸軍戸山学校より「軍刀の操法及試斬」(偕行社記事付録)が発行され、将校らに伝達される。 また、高山は1941年(昭和16年)、海軍横須賀砲術学校体育部長、鬼束鉄夫大佐(海兵47期)の召聘を受けて、横須賀に赴き、6月16日、「海軍武道教範」の作成を命ぜられる。 1942年(昭和17年)、「実戦と武術の改革」を発表、国民体育館で講演する。講演記録が、同年2月1日発刊の雑誌「新武道」に掲載される。 1943年(昭和18年)には、体育部教官・教員24名を指導した。切腹の際の介錯なども解説しており、部員からは理論と実技が面白いと好評で、「高山武蔵」とも呼ばれていた。 同年、「海軍武道教範」が制定されるが、これは10月18日、非常時に対する国民武道の要望から、厚生省によって広義決戦「国防武道」として採用された。 8月には、海軍と武徳会の交渉により、高山政吉は剣道・居合・銃剣術・各九段範士を授与された。1944年(昭和19年)1月19日には、高山刀法を伝達するために全国を四区分して指導することが決められ、東北区には東京高等師範学校の道場が、中部区には京都武徳殿が、西部・四国区には呉海兵団が、九州区には佐世保海兵団がそれぞれ割り当てられた。 この任務達成のため、高山は武徳会から、剣道・居合・銃剣術、各十段を更に授与された。
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