研究の執筆と発表・功績とは? わかりやすく解説

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研究の執筆と発表・功績

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 00:05 UTC 版)

高山政吉」の記事における「研究の執筆と発表・功績」の解説

1939年昭和14年11月上海方面第三艦隊旗艦出雲長谷川清司令官)の命により、上海特別陸戦隊本部において、抜刀術研究整備完了する。これ以後高山帰国し1940年昭和15年)、雑誌に「武道改革所見」を発表した。またこの頃より、支那事変戦訓を基に開発された、「高山刀」と称される軍刀を、岐阜県関の刀工指導し作刀させる。 以降舞鶴海兵団海軍兵学校等で講演実技演武公開すると、海軍機関学校高山白兵抜刀術採用した。更に、1940年昭和15年5月5日大日本武徳会京都全国大会において「高山流白兵抜刀術」の流名で、舞鶴海軍によって公開された。 同時期、陸軍内でも高山刀法理論採用するかどうか検討され同年5月19日松井石根大将中島今朝吾中将石原中将推挙により、陸軍戸山学校校長田中久一中将のもとで検討される9月20日には、中山博道範士の上に基づき陸軍大臣官邸において、大日本武徳会会長林銑十郎大将松井石根大将田中久一校長らによって高山刀法審議され採用されることが決定する同年10月18日には、陸軍大臣東条英機より採用承認され高山は、陸軍からは終身教官をもって遇することを口達された。11月には、陸軍戸山学校より「軍刀の操法及試斬」(偕行社記事付録)が発行され将校らに伝達されるまた、高山1941年昭和16年)、海軍横須賀砲術学校体育部長鬼束大佐海兵47期)の召聘を受けて横須賀に赴き、6月16日、「海軍武道教範」の作成を命ぜられる。 1942年昭和17年)、「実戦武術改革」を発表国民体育館で講演する講演記録が、同年2月1日発刊雑誌「新武道」に掲載される1943年昭和18年)には、体育教官教員24名を指導した切腹の際の介錯なども解説しており、部員からは理論実技面白いと好評で、「高山武蔵」とも呼ばれていた。 同年、「海軍武道教範」が制定されるが、これは10月18日非常時対す国民武道要望から、厚生省によって広義決戦国防武道」として採用された。 8月には、海軍武徳会交渉により、高山政吉剣道居合銃剣術・各九段範士授与された。1944年昭和19年1月19日には、高山刀法伝達するために全国を四区分して指導することが決められ東北区には東京高等師範学校道場が、中部区には京都武徳殿が、西部四国区には呉海兵団が、九州区には佐世保海兵団それぞれ割り当てられた。 この任務達成のため、高山武徳会から、剣道居合銃剣術、各十段を更に授与された。

※この「研究の執筆と発表・功績」の解説は、「高山政吉」の解説の一部です。
「研究の執筆と発表・功績」を含む「高山政吉」の記事については、「高山政吉」の概要を参照ください。

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