現在の名護市の旧町域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 01:30 UTC 版)
合併後はさらに北部の中核都市として機能が高まり、1975年の海洋博覧会を機に道路網の整備が進み、同年5月に沖縄で初めての高速道路(法令上は有料道路扱いで正式に高速道路なったのは那覇まで延長した1987年から)となる沖縄自動車道が許田〜石川間に開通したほか、かつてカーブが多く交通の難所だった名護七曲りのあった国道58号も沖縄自動車道開通と同時に現在の4車線道路に整備され、当時県道だった東江・宮里間はバイパスとして整備された(1987年に国道58号に編入)。 1980年代になると国道58号を中心に整備され、1986年には市街地を避ける名護バイパスが全線開通し、以降名護以北の山原各地へはこの道路を経由するようになった。また市役所、警察署、消防署が国道沿いに移転したほか、新たに市民会館やスポーツ施設が完成した。さらに手付かずだった大北も土地開発され、住宅が建ち始めたほか市内の高校も相次いで移転・開校した。1987年には国体開催を前に沖縄自動車道が那覇まで開通し、これまで2時間半から3時間かかっていた那覇市への所要時間が半分以下の1時間余で行けるようになり、物流輸送の面で大きなプラスとなった。翌年には那覇空港とを結ぶ高速バスの運行も開始した。 1990年代になると看護学校や北部地区では初めての大学となる名桜大学が為又(びいまた)に開学、付近には学生向けのアパートも建ち始めたほか、宮里・大北・為又の国道58号沿いには大型スーパーや商業施設が相次いで進出し、中南部の都市と変わらない街へと大きく変貌した。また恩納村に近い部瀬名地区にはリゾートホテルが建ち並び始めたほか、最近では名護市街地にも都市型ビジネスホテルが建つようになった。旧名護町域の主な産業は次第に商業・観光業の第3次産業へと移った。しかしかつての市街地では空洞化も出始め、空き店舗も出てきた。 2000年には主要国首脳会議(サミット)の首脳級会議が部瀬名岬の万国津梁館で開催され、国内外で注目を浴びた。また報道の拠点となるプレスセンターは名護市民会館周辺に仮設の建物が建設されたほか、向かいの21世紀の森体育館や屋内運動場も使用された。カフェテリアに使用された建材は2001年に市内東海岸の旧久志村の豊原に設置された国際海洋環境情報センター(独立行政法人海洋研究開発機構の外部機関)に再利用された。 現在の名護市の総人口の過半数、沖縄本島北部12市町村(伊江村・伊是名村・伊平屋村も含む)の総人口の約1/4が旧町内に集中しており、名護市街地と他の山原地域の格差が大きくなるのが懸念される。
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