現代演劇協会・「雲」の結成
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「劇団雲」の記事における「現代演劇協会・「雲」の結成」の解説
1963年1月14日、芥川比呂志以下、「文学座」の中堅・若手劇団員29名は文学座に退団届を提出し、元文学座文芸部員で評論家の福田恆存と、財団法人「現代演劇協会」を設立し、同協会附属の「劇団雲」に全員参加することを表明した。福田は、「雲」結成を新芸術運動とし、「築地小劇場以来の新劇の亡霊を排し、新しい演劇の創造を目指す」をスローガンに掲げ、「これは単なる劇団の分裂ではない。より大きな構想を持った、芸術上の動きである」と語った。 この集団脱退劇は、日本の演劇界始まって以来の大事件として多くのマスコミも関心を寄せた。脱退に至るまでの行動はすべて極秘裏に進められ、座の幹部の中村伸郎、杉村春子らは、まさに寝耳に水で、当日、1月14日に毎日新聞の朝刊が文学座の分裂をスクープするまで全くこの新集団結成の計画を感知できていなかった。「文学座」集団脱退の背景には、ベテランと中堅・若手陣とのズレがあったと言われる。1962年の『守銭奴』公演中、楽屋に、「演目の決定は劇団員の総意を反映させよ」「馴れ合いの配役反対」などと書かれた現状不満を訴える無署名のビラが張り出される事件が起こった。さらに、1960年の新劇合同訪中公演以降の劇団の左翼化傾向、政治運動への介入への反発も一因であった(俳優座や民藝などの当時の新劇はおおむね左翼に根ざしていたが、文学座は芸術至上主義を掲げ、もともとは政治的・思想的偏向にとらわれない劇団だった)。 分裂が報じられた1月14日は、杉村主演による文学座の本公演『クレランバール』の公演中で、内田稔、新村礼子、谷口香ら「雲」の参加者からも数名がこの舞台に出演していた。そのため、文学座からの脱退及び「雲」の結成はまだ先に予定されていたのだが、毎日新聞が報じたことにより急遽その日のうちに脱退の連名が文学座に提出されることになった。内田ら「雲」メンバーの出演者は、その後も出演し、千秋楽まで舞台を務めた。 福田は「雲」の創立声明書で、「今日、新劇は早くも当初の理念と情熱を失い、しかも拠るべき伝統はついに形成されず、依然として混迷のうちに停滞しながら、その不安をもっぱら独善的な自己満足のかげに糊塗しているかに見えます」と、当時の既存新劇を批判した。 同月19日、声明書に対して出された種々の意見への回答が新聞紙上に掲載される。 要するに、私たちは無の自覚をもって無から出発しようといっているのであり、同時に他の新劇人に対してもその自覚を求めているのである。新劇が始まっていらい三十余年しかたっていない。西欧が数百年もかかって積みあげてきた一つの芸術様式を、それとは全く異質の芸術感覚によって消化するという「大事業」において、新劇界が早くも大きな顔をした専門家や名優を出しているのは、はなはだ笑止ではないかというのが、私たちのいい分である。 築地小劇場運動のほぼ二十年前、すなわち明治の末に坪内逍遥は文芸協会を、小山内薫は自由劇場を起こした。当時の彼らは自分たちの目前にある新しい芸術様式が完全に異質のものであることを自覚し、西欧の「劇とは何か」という問いを自からにつきつけ、それを身につけるためには「どうしたらよいか」について、切実に、素朴に、謙虚に模索していた。私たちはその初心に立ち返ろうというのにすぎない。「旗幟」とか「新味」とかはもうたくさんである。むしろ過去の新劇運動の弱点は、あたかもそのつど「どうしたらよいか」がわかっているような顔をしてきたことにあり、またそのためにしばらくすると、その「ごまかし」と「ぼろ」とが衆目にさらされるという結果を招いてきたことにあった。 それは日本の近代化一般に通じる弱点であって、新劇はそのもっとも適切な象徴と考えるが、そのことについては、また改めて書く。 — 三つの疑問に答える 現代演劇協会「雲」について 福田恆存
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