現代演劇協会・「雲」の分裂
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「劇団雲」の記事における「現代演劇協会・「雲」の分裂」の解説
1975年、現代演劇協会専務理事・向坂隆一郎は、協会所属俳優(雲、欅劇団員)の外部出演をマネージメントする映画放送部門の会社化の提案を行った。三百人劇場建設のために協会の財政状況は逼迫しており、また岡田らがマネージメント体制の弱さを理由に退団したこともあって、俳優座映画放送に倣って俳優たちの映画・テレビ出演の売り込みの強化を図って協会を立て直そうという意図があった。この提案に、向坂に近い芥川は賛成するが、福田は「現代演劇協会創立時の理念に反する」と反対した。 この提案に対抗する形で、福田は「雲」と「欅」を解散し、両劇団の俳優をまとめて新たな劇団を立ち上げる統一劇団構想を表明、現代演劇協会の協会員にこの計画に関するアンケートを実施した。芥川の影響力を落とそうとの思惑が見て取れるこの提案には、「雲」所属の俳優の多くが反対したため、統一劇団構想は福田からいったん取り下げられたが、この対立はそれまでに蓄積された福田と芥川の感情的な対立や方向性の違いもあり、翌1976年度の公演レパートリーも決定できない状態になるなど、現代演劇協会は混乱し、完全に分裂状態となった。この騒動の最中、山﨑努、加藤治子らが退団した。 1975年7月31日、舞台『美女と野獣』公演終了直後、ついに芥川以下、仲谷昇、神山繁、岸田今日子ら「雲」の大半の俳優が現代演劇協会に退会届を提出し、翌8月1日、「演劇集団 円」結成を表明した。芥川は「円」結成の記者会見で、「福田理事長を頂点とするピラミッド型の組織の中で一種の酸欠状態を生じ、もはや創造的な活動は困難であると判断して新しい集団の結成に踏み切った」と、福田との溝の深さを吐露した。 一方の福田は、「雲と欅の対立、福田と芥川の対立といった次元のものではない」と述べている。「雲」には、小池朝雄、北村総一郎ら一部のベテラン・中堅と、若手俳優の計23人の俳優が残留したが、「雲」及び「欅」は同年末をもって解散し、翌1976年1月、「雲」の残留派と「欅」を統合し、現代演劇協会附属「劇団昴」を新たに結成、芥川らが去ったことにより、福田の統一劇団構想は実現した。なお、名古屋章ら一部の俳優は、どちらにも属さずフリーを選択した。
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