福田と芥川の対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 04:45 UTC 版)
1974年の三百人劇場の開場を目前に控えた頃から、福田と芥川の対立が先鋭化し始め、福田のワンマン体制に反発する声が「雲」からあがり始める。1973年、「欅」の中心メンバーである岡田眞澄、南原宏治が、現代演劇協会のマネージメント体制の弱さを理由に離脱した。そのため、福田は二人が抜けた「欅」の体制建て直しのため、芥川の影響力が大きくなった「雲」から手を引いて「欅」に専念し、芥川に「雲」の全権をあずけることになった。以降、福田が「雲」で演出する機会はなくなり、事実上「雲」は芥川の劇団となった。しかし、「雲」の中でも、加藤和夫、稲垣昭三、内田、西本裕行ら福田に近い俳優たちは、この福田色の排除と芥川色の強化に反感を覚え、「欅」が主力俳優の離脱により弱体化していることを幸いと、芥川の「雲」を離れて福田の「欅」に移籍した。これで、「雲」=芥川派、「欅」=福田派という色分けが鮮明になり、両劇団間の摩擦も大きくなっていく。
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