現代の市の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/09 03:40 UTC 版)
1970年代の初めに、市の北部では広い土地に多層階集合住宅が建てられた「ガルテンシュタット」(「ガーデンシティー」提唱者が唱えた本来の古典的な田園都市ではない)が建設され、市の南部では広い住宅地が建設された。ここには新しい学校や役所が建設された。1987年に業務を開始した郡庁舎もここにある。 1970年から始まった中核市区の近代化は、新たなメシェデの歴史にとって重要なプロジェクトであった。このプロジェクトが数多くの不都合を解消すると期待された: 内市街地域の産業定着、いくつかの通りの見通しの悪さ、建物不足、しかし何よりも特に連邦中で有名な「渋滞の」メシェデを解消しなければならなかった。1982年にアントニウス橋が完成し、連邦道(ドイツ語版、英語版) B55号線の移転が始まった。ルール川に別の橋が建設され、内市街の慢性的な渋滞の一因であった鉄道踏切が閉鎖され、ルール通りは歩行者専用道に変更された。 中核市区の南を通る4車線のバイパス道路は1987年までに2段階で完成した。シュティフツセンターは1984年に売店を有する駐車場としてオープンした。1980年にはメシェデ貯蓄銀行の新たな本店が開行し、同年その隣に市立ホールが完成した。カイザー=オットー広場は1991年に歩行者専用区域になった。内市街環状道が完成したことで、1998年に内市街の近代化は完了した。多くの商店や工業系企業が「エンステ」工業地域に移転した。近代化により、市街地内部の質は大きく価値を高め、1950年代のみすぼらしい建物は取り壊された。近年、内市街の数多くの新しい建物が建設された。多くの古い住居と新しいオフィスビルが並んでいる。職業安定所の建設と聖ヴァルブルガ教会の修復により内市街の発展は収束した。2000年から新たな住宅地が設けられ、市の北西部のハインベルクや南東部が開発されている。 2000年から2005年の計画は、ドイツ鉄道のエリアに集中した。ここは過去20年間にますます撤退が増えていた。何年にもわたる困難な計画期間を経て、2008年に「バーンシーネ・ヴェスト」と呼ばれる工事が始まり、一部が完了している。 この他に、市庁舎周辺地域の開発が行われた。オフィスビルが建設され、服飾店やルール川を眺められるレストランが定着した。現在、「レギオナーレ 2013」に基づき、メシェデ市、特にその中核市区の都市開発計画が策定されている。「Wissen, Wasser, Wandel – eine Hochschulstadt am Fluss」(知識、水、散策 - 川縁の大学都市)のモットーの下、ルール川やヘネ川とメシェデとの結びつきは強固となり、大学都市の性格が促進されている。特に、1960年代に内市街のヘネ川の上に施された、現代の視点から見ると美的でないコンクリートの蓋である「ヘネデッケル」を撤去し、河畔地区を形成することでメシェデにおける滞在の質の向上に結びつける計画は、メシェデに対する「レギオナーレ2013」の幅広い同意と支援を引き出している。 2013年夏にヘネ川の解放が完了し、これにより街の風景は大きく変貌した。さらに、内市街の東側にルール川を渡る新しい橋ヨハネス橋が架けられた。これはかなり以前に始まった東部環状線を完成させ、コルピング通りを経由の主要交通路をなすものである。ヴィンツィガー広場は交通量の少ない制限時速30 km ゾーンとなった。ルール橋も2014年まで、包括的で緊急に必要な修繕を行うために遮断された。この他に、かつて百貨店が入居していた市立ホールの建物に投資する人物が現れたことが発表された。この投資家は大規模な改築を行い、「メシェデ・センター」を構築する計画を有していた。その完成は2014年秋の計画であった。
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