独立リーグ・香川時代
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大学時代の監督に勧められ、2006年4月に四国アイランドリーグの香川オリーブガイナーズへ練習生として入団し、5月に選手登録された。その後はチームの中心選手として活躍し、アイランドリーグの5月の月間MVPに選ばれるなど、2006年は打率3割2分7厘、11本塁打で首位打者、本塁打王の二冠を獲得。守備でも持ち味である鉄砲肩と大胆なリードでチームを牽引。総合優勝に大きく貢献しリーグ年間MVPに選ばれた。しかしそのオフもどの球団からもドラフト指名はなく、同僚の深沢和帆(巨人が指名)、伊藤秀範(ヤクルトが育成枠指名)を羨望のまなざしで見つめるだけだった。 2007年も引き続き主力の捕手としてチームを支え、前後期と年間チャンピオンシップ、さらに独立リーグのグランドチャンピオンシップの優勝に貢献。個人タイトルこそなかったものの、打率と本塁打はリーグ2位、打点は3位という成績を残し、リーグの後期シーズンMVP及びグランドチャンピオンシップのMVPに選出された。しかし2007年のドラフト会議でも、事前に候補として名前が挙がりながら指名を受けることができなかった。 2008年1月から1ヶ月間、オーストラリア・クイーンズランド州にあるアマチュアリーグに、チームメイトの塚本浩二とともに派遣された。サーファーズ・パラダイス・ベースボールクラブに所属。当初は2ヶ月間の予定であったが、派遣中の堂上をメジャーリーグのボストン・レッドソックスのスカウトが評価し、レッドソックスが獲得の意思を示してアイランドリーグ側と交渉に入ったことから、予定を切り上げて2月に帰国した。契約が成立した場合はマイナー契約でのスタートとなると報じられた。その後、3月になってチームメイトの松尾晃雅が一足先に2月7日にレッドソックスとマイナー契約を結んだことが発表され、堂上については交渉段階と伝えられた。 同年5月に、ボストン・ヘラルドにおいて「移籍に必要なビザが取得できなかったため、今シーズンの移籍はないであろう」との記事が掲載された。最終的に2008年のシーズンも香川でプレーすることとなり、前期と年間の優勝に貢献した。 同年10月30日のプロ野球ドラフト会議において、福岡ソフトバンクホークスから育成選手枠で指名された。背番号は126。
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独立リーグ・香川時代
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2010年12月17日に、四国アイランドリーグplusの地元球団である香川オリーブガイナーズへの入団が発表された。背番号は18。 2011年には、先発ローテーションの一角を担いながら、リーグ戦26試合に登板。通算投球回数55イニングで、4勝1敗という成績を残していた。しかし、8月31日に、海水浴で海に飛び込んだ際に首の骨を粉砕骨折。頸椎の損傷によって長期の療養を要することから、9月7日に球団からいったん契約を解除された。 頸椎の損傷直後は、指先の感覚を失っていて、生涯にわたる車椅子生活への覚悟を医師から求められるほどだった。それでも、山中は野球を続けるべく、手術の翌日からリハビリを開始。球団からの契約解除後も、実兄の仕事を手伝いながら自主トレーニングを続けた。香川球団も、山中が着用していた背番号18を欠番と扱うことで、復帰を後押し。2012年8月1日付で、球団が小・中学生を対象に主催するベースボールアカデミーのコーチに採用した。 リハビリでの回復振りが西田真二監督に認められたことから、2014年2月3日に練習生として契約。背番号18を再び着用することになった。 香川球団では練習生に給料を支払わない方針であるため、山中は復帰後も、実兄の仕事へ従事。球団が使用する球場の運営業務にも携わりながら、実戦復帰に向けてリハビリを続けた。しかし、リーグ戦の登板に至らないまま、2015年のリーグ戦前期終了後に現役引退を決意。リーグ戦終了後の10月31日に、球団を通じて退団を発表した。
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