焼津漁船の南方進出と徴用
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「焼津港の徴用船」の記事における「焼津漁船の南方進出と徴用」の解説
焼津港の漁船の徴用は、焼津漁業組合(1903年に発足)の発展と深い関係をもつ。 1909年 焼津漁船の動力化が始まった。 1924年 焼津港で初の鋼船 第三川岸丸が進水。 1925年 原耕が建造した排水量100トン級の大型木造漁船、千代丸と八阪丸が進水 1925年9月 焼津港に全国で初めて漁業無線施設である枕崎漁業無線局開局(現在の鹿児島県無線漁業協同組合)が認可され、遠洋漁業が急速に拡大した。 1927年 千代丸が鵬程一万里、一航海一万円を成し遂げた影響で急速に100トン級漁船の建造が増加する。 1931年 焼津の所属船による初の南方進出。海隼丸(50トン)が出航。 1939年 夏 サイパン・パラオ・トラック方面への進出が実現 冬 カツオからマグロ漁に進出。パラオでアメリカ向けの鮪油詰め缶詰の輸出を開始。 1940年 戦時統制に協力する形で、南方漁場の開拓を進める一方、併せて戦時徴用船として軍とともに展開した。 1941年大型漁船の徴用により、焼津の漁業は壊滅的な打撃を受けた。この時点で、焼津港の徴用船は85隻、うち1940年以降の徴用船で無事に帰還したのは僅か10隻余りだったという。 焼津鮮魚介出荷統制組合による完全な配給統制出荷が始まる。 1942年 焼津港の漁船の8割が徴用され、尚且つその必要量の2割しか燃料油が支給されなかった。 1943年 こうした戦時下で、焼津の各組合、企業は、軍の展開と共に、積極的に南方海域の開発を続けた。 2月 第一次南方開発派遣団7隻が焼津港を出港。 8月 第二次南方開発派遣団4隻が焼津港を出港。 1944年 2月 南方に展開していた軍隊の玉砕が始まる。クサイの南興水産各基地は壊滅的な状態になる。 4月 第三次南方開発派遣団が焼津港を出港。 6月 アメリカ軍のサイパン島の上陸により、南興水産サイパン営業所所員の大半が戦死。 8月 第三次南方開発派遣団の船が沈没。 9月 第四次南方開発派遣団が焼津港を出港。 10月 フィリピン方面の派遣団に現地召集がかかる。11月、現地の指揮下に入る。 1945年 マニラ攻防戦、現地徴用された開発団団員からも多数の死者、捕虜が出る。そして終戦を迎えた。 焼津漁業組合は戦況に応じて組織を改編し、焼津港の漁船の南方開発がそのまま徴用された結果となった。
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