焼津漁船の南方進出と徴用とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 焼津漁船の南方進出と徴用の意味・解説 

焼津漁船の南方進出と徴用

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 17:34 UTC 版)

焼津港の徴用船」の記事における「焼津漁船の南方進出と徴用」の解説

焼津港漁船徴用は、焼津漁業組合(1903年発足)の発展と深い関係をもつ。 1909年 焼津漁船動力化始まった1924年 焼津港で初の鋼船 第三川岸丸が進水1925年 原耕建造した排水量100トン級の大型木造漁船千代丸と八阪丸が進水 1925年9月 焼津港全国初め漁業無線施設である枕崎漁業無線開局現在の鹿児島県無線漁業協同組合)が認可され遠洋漁業急速に拡大した1927年 千代丸鵬程一万里、一航海一万円成し遂げた影響急速に100トン漁船建造増加する1931年 焼津所属船による初の南方進出。海隼丸(50トン)が出航1939年 夏 サイパン・パラオ・トラック方面への進出実現カツオからマグロ漁に進出パラオアメリカ向けの詰め缶詰輸出開始1940年 戦時統制協力する形で、南方漁場開拓進め一方併せて戦時徴用船としてとともに展開した1941年大型漁船徴用により、焼津漁業壊滅的な打撃受けた。この時点で、焼津港の徴用船85隻、うち1940年以降徴用船無事に帰還したのは僅か10余りだったという。 焼津鮮魚出荷統制組合による完全な配給統制出荷が始まる。 1942年 焼津港漁船の8割が徴用され、尚且つその必要量の2割しか燃料油支給されなかった。 1943年 こうした戦時下で、焼津の各組合企業は、軍の展開と共に積極的に南方海域開発続けた2月 第一次南方開発派遣団7隻が焼津港出港8月 第二次南方開発派遣団4隻が焼津港出港1944年 2月 南方展開していた軍隊玉砕が始まる。クサイ南興水産基地壊滅的な状態になる。 4月 第三次南方開発派遣団が焼津港出港6月 アメリカ軍サイパン島の上陸により、南興水産サイパン営業所所員大半戦死8月 第三次南方開発派遣団の船が沈没9月 第四次南方開発派遣団が焼津港出港10月 フィリピン方面派遣団に現地召集がかかる。11月現地指揮下に入る。 1945年 マニラ攻防戦現地徴用された開発団団員からも多数死者捕虜が出る。そして終戦迎えた焼津漁業組合戦況に応じて組織改編し、焼津港漁船南方開発そのまま徴用された結果となった

※この「焼津漁船の南方進出と徴用」の解説は、「焼津港の徴用船」の解説の一部です。
「焼津漁船の南方進出と徴用」を含む「焼津港の徴用船」の記事については、「焼津港の徴用船」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「焼津漁船の南方進出と徴用」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


このページでは「ウィキペディア小見出し辞書」から焼津漁船の南方進出と徴用を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から焼津漁船の南方進出と徴用を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から焼津漁船の南方進出と徴用 を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「焼津漁船の南方進出と徴用」の関連用語

焼津漁船の南方進出と徴用のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



焼津漁船の南方進出と徴用のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの焼津港の徴用船 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS