灘循環電気軌道買収
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 21:33 UTC 版)
しかし前述したように、この区間には日本初の都市間電車となる阪神電気鉄道本線が1905年に開業しており、1874年に開通した内閣鉄道院(当時の国有鉄道を管轄していた官庁)東海道本線(現在の通称:JR神戸線)より乗客の多くを奪うことに成功していた。そのため、これと並行する軌道敷設特許を確保するのには、様々な障害を乗り越える必要があった。 箕面有馬電気軌道が開業した2年後の1912年、灘循環電気軌道という会社が神戸市の葺合(現在の中央区)より篠原・岡本・森・西宮・深江・御影と、東海道本線・阪神本線の北側(山手)および南側(海岸)を通って、神戸と西宮を結ぶ形の環状線を敷設するための特許を取得した。箕面有馬電気軌道(以下、箕有とする)では、これと路線を接続させる形で、阪神間の輸送に参入する構想を描いた。 しかし競合を避けたい阪神電気鉄道も、この灘循環電気軌道の計画には強い関心を抱き、働きかけを行っていた。箕有はそんな中でなんとか、不景気で発起人から資金の払い込みを受けることのできていなかった灘循環電気軌道を自身の主導下で設立させる(このとき、環状線の南半分は計画を打ち切る)と共に、自社が工事に取り掛かっていた宝塚 - 門戸厄神 - 西宮(現在の香櫨園駅辺り)間の予定線に接続し、中間にある伊丹の発展を促すという名目で、十三から伊丹を経て門戸厄神に至る区間(十三線)の特許を1913年2月20日に取得することに成功した。 箕有では特許の収得後、3月には十三から東海道本線沿いに一気に門戸厄神まで抜けるルートへの変更申請を行っている。しかしこれには翌年1月、明らかに特許申請時と目的が異なっていることから認めない判定が下され、結局は申請時のルートで箕有は1915年4月、十三線の施工認可を受けた。 だがその直前の1914年、箕有社長の岩下清周が頭取を兼任していた箕有の大株主である北浜銀行が、大阪電気軌道・大林組への融資焦げ付きもあって破綻し、箕有が負債の担保として預けていた灘循環電気軌道の株式を同行整理にあたって売却する方針が立てられた。北浜銀行の大株主には、阪神電気鉄道の専務を勤めていたものもおり、事態は阪神電気鉄道が灘循環電気軌道の株を買収する方向で進んだ。 箕有と小林にとっては危機というべき事態であったが、小林は阪神に対して「灘循環電気軌道の買収を行うのであれば、十三線敷設のために要した準備費用を補償せよ」「それができないのなら免許線を阪神・箕有の共同経営とするか、箕有による買収を認可せよ」と交渉、阪神では箕有の資本力が小さいことから、この第一次世界大戦勃発直後に起こった恐慌下では買収は不可能だろうと考え、買収の意思がないことを箕有に伝えた。小林はこの機を逃さず、1916年4月に臨時株主総会を開催し、灘循環電気軌道の買収、その特許線と十三線との結合を決議する。阪神電気鉄道はこの事態に驚き、総会無効の訴訟提出、用地買収の妨害といった活動に出た。 しかし訴訟は1918年12月までに阪神の敗北という形で決着がつき、計画における最大の問題であった建設資金に関しても、大戦景気を受けて増資・借用という形で確保することができた。その他、資材価格の高騰という問題はあったものの、ようやく計画は前進することになったのである。 箕有は1917年6月1日、十三線の計画を阪神間の競争を行うに当たって優位にすべく、再び南側ルートへの変更申請を行った。これに対しては、伊丹などから「約束反故」だとして抗議の声が上がったものの、結局は「塚口を経由し、そこから伊丹まで支線を敷設すること」を条件にして8月29日に認可が下った。
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