灘中学校・高等学校とのかかわり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 09:03 UTC 版)
「嘉納治五郎」の記事における「灘中学校・高等学校とのかかわり」の解説
1927年(昭和2年)67歳となっていた嘉納は、千葉県に広大な土地を購入し、並木道まで整備し、長年の夢であった自分自身の私立学校を設立する計画に着手し始めた。しかし、なかなか多忙のため思いに任せられずにいた。そんな時、故郷の神戸市御影村の人たちから私立中学を設立したいという相談を受け、彼はこの話に全面的に協力する。親戚筋である菊正宗、白鶴酒造を経営する嘉納三家にも出資を求め、東京高等師範学校時代の愛弟子眞田範衞を校長に送り込んで設立されたのが、現在の灘中学校・高等学校(通称:灘校)である。設立当初こそ神戸一中なみの秀才校とはいかなかったが、だんだんに頭角を顕し、現在では兵庫県一の進学校となっている。嘉納自身が経営に携わることはなかったが、顧問名義で年に何度も神戸に足を運び、生徒に訓示し、激励した。校訓には嘉納のモットーであった「精力善用」、「自他共栄」が掲げられ、もちろん柔道が当初から正科になっている。灘校側では今でも事実上の創立者として顕彰し続けているようである。
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