渡辺俊男
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渡辺 俊男(わたなべ としお、1914年〈大正3年〉7月10日 - 2007年〈平成19年〉8月18日)は、日本の運動生理学者、脳生理学者、医師。医学博士。元お茶の水女子大学教授、元横浜国立大学教授、元日本大学教授。日本体力医学会名誉会員。
略歴
新潟県岩船郡関谷村下関(現 関川村下関)で渡辺医院(内科・外科)を開業する医師・渡辺彊(つとむ)の長男として出生[1][注 1]。
関尋常高等小学校を経て、1932年(昭和7年)3月に新潟中学校を卒業[注 2]、1934年(昭和9年)4月に東京慈恵会医科大学予科に入学、1937年(昭和12年)3月に予科を修了、1941年(昭和16年)3月に東京慈恵会医科大学医学部を卒業[5][6]。
軍医として仙台の日本陸軍第2師団に入隊[7]、会津若松陸軍病院に勤務、1943年(昭和18年)に応召、中国北部の日本陸軍第59師団に入隊、野戦病院(第3311部隊)に勤務[8]、1945年(昭和20年)8月15日に朝鮮北東部の興南で終戦[9][注 3]、ソビエト連邦によってシベリアに抑留され、1947年(昭和22年)12月に舞鶴港に帰還[11]、最終階級は陸軍軍医少佐(ポツダム少佐)[12]。
1948年(昭和23年)4月に広島県立医科大学生理学教室(教授:西丸和義)講師に就任[注 4]、1952年(昭和27年)3月に助教授に就任、同月にお茶の水女子大学文教育学部教育学科体育学専攻第二講座健康教育学(教授:猪飼道夫)講師に就任、1955年(昭和30年)に助教授に就任、1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)までアメリカのイリノイ大学およびジョージ・ウィリアム大学に留学、エドモンド・ジェイコブソンおよびアーサー・スタインハウスに師事、1963年(昭和38年)4月にお茶の水女子大学文教育学部教授に就任、1970年(昭和45年)4月に横浜国立大学教育学部教授に就任、1980年(昭和55年)に定年退官[5]、日本大学理工学部教授に就任、1985年(昭和60年)に定年退職[注 5]。
2007年(平成19年)8月18日に新潟県新潟市中央区神道寺にある、弟が開設して院長・理事長を務め、自身が理事を務めた、みどり病院(旧 渡辺医院)で心不全のため死去[5][14]、93歳没。墓所は故郷の関川村下関の白山平霊園[15]。
役職
- お茶の水女子大学評議員
- 余暇開発センター理事・顧問
- 日本生産性本部メンタル・ヘルス研究所顧問
- 日本体力医学会評議員・理事
- 日本体育学会評議員
- 日本生理学会評議員
- 日本ストレス学会理事
- 日本ストレスマネジメント研究会会長
- 国際ストレスマネジメント協会日本支部会長
- 新成医会理事
逸話
- 渡辺俊男はスキージャンプ選手の笠谷幸生のトレーニングドクターを務め、笠谷に弾丸のように飛ぶのではなく、リラックスしてタンチョウヅルのようにふわっと舞い上がり、ふわっと着地すること、距離は滞空時間に正比例することを教え、笠谷の筋電図を取得して飛ぶのに不要な筋肉を緊張させていないかチェックを繰り返し、笠谷は1972年(昭和47年)の札幌オリンピックで金メダルを獲得した[16][17][18]。
- 渡辺俊男がシベリア抑留中にソビエト連邦のエラブカ収容所で交流したルーマニア人捕虜と55年以上を経て再会した実話が、2005年(平成17年)5月5日に『凍土の約束 50年かけて果たしたラーゲリの誓い』という題名の本として出版され、翌々日の5月7日にNHK総合テレビジョンのドキュメンタリー番組『NHKスペシャル』で『終戦60年企画 ドキュメンタリードラマ「望郷」』という題名のドキュメンタリードラマとして放送された[16][19][20][21][22]。
関連人物
教え子
友人
親族
著作物
著書
- 『経営者・管理者のためのリラクセーション読本』日本事務能率協会、1964年。
- 『表現とこころ 舞踊の哲学と美と生命の法則』主潮社、1964年。
- 『生理解剖学』相澤義雄・井川幸雄・坪井実[共著]、廣川書店、1966年。
- 『舞踊のいのち 舞踊の科学と美と生命の法則』歩兵出版、1966年。
- 『新生理学入門』廣川書店、1967年。
- 『リラクセーション』不昧堂出版、1970年。
- 『身近なリラックスのすすめ 歯科医師の健康のために』一世出版、1971年。
- 『レクリエーション』医歯薬出版〈講座/健康の生理学 7〉、1971年。
- 『生理学序説』廣川書店、1973年。
- 『頭をねる体育』杏林書院〈杏林新書〉、1973年。
- 『自分の体の首領になろう 疲れイライラを解消する本』地球書館〈Q-BOOKS〉、1974年。
- 『受験生で悩む親の本 受験地獄で苦しむわが子をどう扱ったらよいか』エール出版社〈YELL books〉、1974年。
- 『美と生命の法則』泰流社、1974年。
- 『受験合格母親作戦 成功のキメ手は母親が握る』エール出版社〈YELL books〉、1974年。
- 『コンディショニングの科学 ベストな心身への科学的接近』調枝孝治[共著]、大修館書店、1977年。
- 『ジェイコブソン博士のリラックス体操 神経の疲れをとる』青春出版社〈PLAY BOOKS〉、1978年。
- 『可能性としてのこども 生理学からの知』思索社〈未来のこども〉、1986年。
- 『ビジネスマンのためのリラクセーション さよならストレス』日本生産性本部、1988年。
- 『生きていることの生理学』杏林書院、1988年。
- 『生命と美に関する13章』チャネラー[発売]、コム、1996年。
- 『人はどうして疲れるのか』筑摩書房〈ちくま新書 259〉、2000年。
- 『凍土の約束 50年かけて果たしたラーゲリの誓い』香月泰男[カバー装画]、半藤一利[推薦]、祥伝社、2005年。
編書
- 『手軽にできる体操百科』池田書店〈実用新書 55〉、1969年。
編著書
- 『女子の保健体育』只木英子・川原ゆり・荒川祥子・木村順子・山口基子[共著]、廣川書店、1969年。
訳書
- 『ビジネスマンのリラックス健康法』エドモンド・ジェイコブソン[著]、有紀書房〈有紀新書 3〉、1963年。
論文
脚注
注釈
- ^ 先祖は上杉景勝の家臣で信濃国埴科郡屋代郷(現 長野県千曲市北東部)を領した屋代常勝であり、1582年(天正10年)に柴田勝家に攻められて屋代城が落城すると越後国蒲原郡中村(現 新潟県新発田市下中)に逃れて定住し、子の常政に渡辺姓を名乗らせた[2]。常勝の子孫は医業の傍ら新発田藩の剣術の指南役を務めたが、渡辺俊男の高祖父・渡辺信行が1845年(弘化2年)に越後国岩船郡小和田村(現 新潟県岩船郡関川村小和田〈渡辺俊男の本籍地〉)に移住し、渡辺彊が1908年(明治41年)に関谷村下関で開業した[3]。
- ^ 中学2年生の時に修学旅行で佐渡島に行ったが、旅館で刺身を食べて蕁麻疹になり、数年間、刺身を食べることができなくなった[4]。
- ^ 終戦時には野戦病院の院長を務めていた[10]。
- ^ 1950年(昭和25年)12月に東北大学から医学博士の学位を取得[5]。
- ^ 相模女子大学と京浜女子大学(1989年〈平成元年〉に鎌倉女子大学に改称)の非常勤講師を務めた[13]。
出典
- ^ 「渡邊彊」『鄉圡更生誌』「國手錄・新潟縣」3頁。
- ^ 『加治川村誌』118-119頁。
- ^ 『関川村史 通史編』593-594頁。
- ^ 『蒲原』第18号、64頁。
- ^ a b c d 『体力科学』第57巻第1号、i頁。
- ^ 『新潟県 人物・人材情報リスト 2004』843頁。
- ^ 『凍土の約束 50年かけて果たしたラーゲリの誓い』15頁。
- ^ 『凍土の約束 50年かけて果たしたラーゲリの誓い』16頁。
- ^ 『凍土の約束 50年かけて果たしたラーゲリの誓い』16-19頁。
- ^ 『凍土の約束 50年かけて果たしたラーゲリの誓い』19頁。
- ^ 『凍土の約束 50年かけて果たしたラーゲリの誓い』113頁。
- ^ 『凍土の約束 50年かけて果たしたラーゲリの誓い』132頁。
- ^ 「著者略歴」『可能性としてのこども 生理学からの知』奥付。
- ^ 無責庵: 2007 - 渡辺俊男
- ^ 無責庵: 2009 - 渡辺俊男
- ^ a b c 『体力科学』第57巻第1号、ii頁。
- ^ a b 『讀賣新聞』1994年11月6日付朝刊、21面。
- ^ 『新人国記 8: 福島県 佐賀県 新潟県 徳島県 石川県』172-173頁。
- ^ 終戦60年企画 望郷 - ドラマ詳細データ - テレビドラマデータベース
- ^ 終戦60年企画 ドキュメンタリードラマ 望郷 - NHKスペシャル - NHK
- ^ NHKスペシャル 「望郷」 | NHKクロニクル | NHKアーカイブス
- ^ NHKスペシャル 終戦60年企画 望郷 - 放送ライブラリー
- ^ 『日本女性科学者の会 NEWS』第129号、1面。
- ^ 『月刊ロアジール』第13巻第5号、18-21頁。
参考文献
- 「故渡辺俊男先生を偲んで」『体力科学』第57巻第1号、i-ii頁、川原ゆり[著]、日本体力医学会、2008年。
- 「渡辺俊男」『新潟県 人物・人材情報リスト 2004』843-844頁、日外アソシエーツ[編]、日外アソシエーツ、2003年。
- 「ストレス追究 ストレス無縁 生理学者 渡辺俊男さん 80」「生涯現役」『讀賣新聞』1994年11月6日付朝刊、21面、林栄太郎[文]、奥西義和[写真]、読売新聞社、1994年。
- 『凍土の約束 50年かけて果たしたラーゲリの誓い』渡辺俊男[著]、香月泰男[カバー装画]、半藤一利[推薦]、祥伝社、2005年。
- 『可能性としてのこども 生理学からの知』渡辺俊男[著]、思索社〈未来のこども〉、1986年。
- 『新人国記 8: 福島県 佐賀県 新潟県 徳島県 石川県』朝日新聞社[編]、朝日新聞社、1985年。
- 『鄉圡更生誌』内外新聞通信社[編]、内外新聞通信社、1935年。
- 『関川村史 通史編』関川村村史編さん委員会[編]、関川村、1992年。
- 『加治川村誌』加治川村誌編さん委員会[編]、加治川村役場 総務課、1986年。
- 「相川音頭の魅力」『蒲原』第18号、64-65頁、渡辺俊男[著]、継志会、1969年。
- 「会長就任のご挨拶 (PDF) 」『日本女性科学者の会 NEWS』第129号、1面、跡見順子[著]、日本女性科学者の会、2021年。
- 「佐橋滋 余暇交友録 天然記念人 渡辺俊男」『月刊ロアジール』第13巻第5号、18-21頁、佐高信[著]、余暇開発センター、1988年。
関連文献
- 『日々有情 渡辺俊男先生退官記念誌』渡辺俊男先生退官記念会、1980年。
- 「青山三九回 卒業五十周年記念パーティー (PDF) 」『青山同窓会會報』第35号、8面、福山健[著]、青山同窓会、1982年。
- 「旧制新潟中学の頃 (PDF) 」『青山同窓会會報』第40号、8面、渡辺俊男[著]、青山同窓会、1985年。
- 「青山渋柿会例会 (PDF) 」『青山同窓会會報』第42号、7面、青山同窓会、1986年。
- 「青山渋柿会例会 (PDF) 」『青山同窓会會報』第44号、7面、青山同窓会、1987年。
- 「三九会は東京で (PDF) 」『青山同窓会會報』第48号、8面、福山健[著]、青山同窓会、1989年。
- 「卒業六十周年記念祭 青山三九会 (PDF) 」『青山同窓会會報』第55号、4面、福山健[著]、青山同窓会、1992年。
- 「二十一世紀に握手を期して 青山三九会 (PDF) 」『青山同窓会會報』第64号、6面、池田藤三[著]、青山同窓会、1997年。
- 「関川出身の生理学者 渡辺俊男さん 3年用ダイアリー刊行 目、心和ませる国内外の風景」『新潟日報』2002年12月24日付朝刊、12面、新潟日報社、2002年。
- 「異国の〝戦友〟 今も風鈴の音に生きる」「絆」『新潟日報』2005年6月20日付朝刊、26面、阿部慎一[著]、新潟日報社、2005年。
- 「シベリア抑留体験 子ども向け書籍に 本県出身渡辺さん」『新潟日報』2005年7月27日付朝刊、17面、新潟日報社、2005年。
- 『きみにありがとう 零下40度のシベリア捕虜収容所で交した約束』美原紀華[文]、永井泰子[絵]、竹山聖[寄稿]、グラフ社、2005年。
外部リンク
- 無責庵 - 渡辺俊男
- 異国の「戦友」今も風鈴の音に生きる シベリアの収容所ではぐくんだ友情 - 新潟日報 - ウェイバックマシン
- 渡辺俊男のページへのリンク