海陵王完顔迪古乃の侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 12:17 UTC 版)
詳細は「采石磯の戦い」を参照 1150年、完顔迪古乃は熙宗完顔合剌に対するクーデターを起こし、金朝の第4代皇帝となった。完顔迪古乃は、自らを中華皇帝と称し、宋を征服して中国を統一することを計画した。1158年、完顔迪古乃は、宋が1142年の講和条約を破って馬を手に入れたと発表して「開戦事由」を作り出した。また、帝国では不評だった徴兵制を導入し、帝国内には不安が広まった。反乱は、契丹人や宋に隣接する地域で勃発したが、完顔迪古乃は異論を許さず、戦争に反対する者は厳しく罰せられた。宋は、完顔迪古乃の計画を事前に知って主に長江流域に国境の防備を整えたが、高宗の優柔不断な態度がこれを妨げた。高宗は平和を望むあまり、金を刺激することを嫌った。完顔迪古乃は正式には宣戦布告をせずに1161年に侵攻を開始した。完顔迪古乃が自ら率いた金軍は10月15日に開封を出発し、10月28日に淮河の国境に達し、長江方面に進軍した。宋は金に淮河を奪われたが、西方のいくつかの金の地域を占領して、金軍の前進を遅らせた。完顔迪古乃は揚州付近に拠点を構えたが、金の将軍たちは采石磯(現在の安徽省馬鞍山市雨山区)付近で長江を渡るために派遣された。 一方で宋の官僚の虞允文は長江を守る軍の指揮をとっていた。11月26日から27日にかけて行われた采石磯の戦いでは、金軍は采石磯を攻撃して敗北した。また、中国初の常備海軍であった宋朝海軍の火薬爆弾を発射する霹靂砲で武装した外輪船の船は、金艦隊の軽艦を圧倒した。金の船は、小型で急造されていたため、対抗できなかったのであった。宋が発射した爆弾には、火薬・石灰・鉄片、そして砒素と思われる毒物が混ぜられていたという。中国の伝統的な記述では、この戦いを戦争の転換点としており、北方の侵略者から華南を守るための軍事的な大逆転としている。この戦いの重要性は、4世紀の淝水の戦いと同様の勝利に匹敵すると言われている。同時代の宋の記録によると、虞允文が指揮する采石磯防衛に派遣された18,000人の宋兵が、40万人の軍勢で侵攻してきた金軍を打ち破ったとされている。しかし現代では、金側の数字は誇張されていると考えてられている。宋の歴史家は、采石磯の戦いにおける金の兵士の数を、完顔迪古乃の指揮下にあった兵士の総数と混同している可能性がある。この戦いは伝統的な記述にあるような金が圧倒的有利にあり宋が圧倒的劣勢にあった戦いではなく、宋は金に対して多くの利点を持っていた。宋の艦隊は金よりも大きく、金は最大の武器である騎兵を海戦で使うことができなかった。 ハーバード・フランクなどによる戦場分析では、この勝利は結果的に宋の士気を大いに高めたものではあったものの、小さな戦いであったことが明らかになっている。金軍は負けたものの、約4000人の死傷者を出しただけで、この戦いは金の戦力にとって致命的なものではなかった。完顔迪古乃は、自分を軽蔑していた金の将軍たちとの関係が悪く、金の勝利の可能性を絶たれたのであった。更に12月15日、完顔迪古乃は軍営にて不満を持つ完顔(耶律)元宜に暗殺された。完顔迪古乃は荒淫な暴君ゆえ皇帝としての諡号はなく、現在でも「海陵王」の名で伝えられる。皇位を継いだのは世宗であった。世宗は妻である明徳皇后を自殺に追いやられたことで、完顔迪古乃を深く恨んでいた。世宗は宋との不評な戦争の終結を迫られ、1162年に金軍の撤退を命じた 。同年、高宗は退位した。完顔迪古乃との戦争前に和平を模索し刺激せぬように国境防衛を整えなかった事が退位の理由の一つとされている。宋金両国の小競り合いは国境沿いで続いたが、1165年に隆興の和議(中国語版)が結ばれて沈静化した。大きな領土の変更はなかった。この条約では、金と宋の関係が紹興和議で定められた君臣関係から、金が叔父で宋が甥とする叔姪関係に改められた。宋からの支払いは、それまでの「貢納」から「歳幣」に名称が変更された。
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