海防調査と天皇陵調査の旅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 10:14 UTC 版)
「蒲生君平」の記事における「海防調査と天皇陵調査の旅」の解説
寛政4年(1792年)、『今書』2巻を著して時弊を論じた。ロシア軍艦の出現を聞き、寛政7年(1795年)には北辺防備の薄さを憂えて再び陸奥への旅に出た。道中北辺防備を憂える亀掛川子貫(岐山と同郷)、大原呑響、藤塚知明らと対面した。帰路、会津で先祖蒲生氏郷・蒲生帯刀の墓に額づいている。 寛政8年(1796年)、『山陵志』論述のために京都に赴いた。この時は茨城柳子軒という書店を拠点に御陵調査を行い、水戸へ戻って徳川光圀の『大日本史』にかけていた「志」(特殊な分野の変遷)の1篇として『山陵志』の原稿に取り組んだ。寛政11年(1799年)11月28日、再び上京して歌人小沢蘆庵の邸に滞在して、天皇陵(古墳)を研究する。父・正栄の喪が明けた32歳の時、河内、大和、和泉、摂津にある歴代天皇陵を全て実際に踏査した。帰途、伊勢松坂の本居宣長を訪れ、大いに激励を受け、佐渡島の順徳天皇陵を拝した。宣長は君平を「雅人」と評した。この調査の旅において、友人である僧・良寿の遺骨を携えて天橋立に行き、日本海に散骨したという話は有名である。寛政12年5月24日、下野に帰った。この時、師の鈴木石橋に挨拶に行ったが、身なりは粗末で疲労困憊していたという。
※この「海防調査と天皇陵調査の旅」の解説は、「蒲生君平」の解説の一部です。
「海防調査と天皇陵調査の旅」を含む「蒲生君平」の記事については、「蒲生君平」の概要を参照ください。
- 海防調査と天皇陵調査の旅のページへのリンク