海陵王の後宮
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海陵王は「天下一の美女を娶る」と豪語したとおり、数多くの女性を後宮に集めた。『金史』巻63 列伝第1「后妃上」によれば、皇帝に即位する前は3人程度だった妻妾が、後年には数えきれないほどの数に登った。また、海陵王はしばしば臣下の妻を奪い、近親相姦をおそれず、幼女を強姦した。姉妹や母娘を揃って後宮に入れることもあり、己の意に従わない女性は殺すことをためらわなかった。宮中の床に布をしきつめて、あらゆるところで宮女と乱交した。 臣下や宗族の妻であって海陵王の後宮に入れられたのは、名前が記載されている者のみでも、貴妃唐括定哥・麗妃唐括石哥・昭妃蒲察阿里虎・昭妃阿懶・昭媛耶律氏・耶律択特懶・密国夫人完顔氏・昭媛耶律察八・寿寧県主完顔什古・静楽県主完顔蒲剌・完顔習撚・完顔師姑児・混同郡君完顔莎里古真・完顔余都・奈剌忽・唐括蒲魯胡只と十数名もいる。宮女のうちで外に夫がある者は別れさせようとした。また、皇族の完顔烏禄(後の世宗)の妻であった烏林荅氏を奪おうとして、彼女を自殺に追いやっている。 またしばしば処女を犯し、元妃大氏に手助けをさせた。『金史』巻5 本紀第5「海陵」によれば、姉の娘である蒲察叉察が幼い頃宮中で鞠に興じているのを見て、彼女を後宮に入れようとしたが、皇太后に反対されている。蒲察叉察の嫁ぎ先に再び出かけて関係を強要し、ついにこれを後宮にいれた。また、継女の完顔重節(蓬萊県主)が美女であったので、彼女をも自らの側室とした。 姉妹を2人とも犯すことはしばしばあった。唐括定哥と唐括石哥、耶律択特懶と柔妃耶律弥勒、元妃大氏と大蒲速盌、完顔莎里古真と完顔余都などである。すでに嫁していた大蒲速盌は、姉に会うため宮中を訪れた際に海陵王に襲われており、彼女は二度と姉に会おうとしなかった。柔妃耶律弥勒は、海陵王に命じられて姉である耶律択特懶を欺いて呼び出した。蕭拱の妻であった耶律択特懶は海陵王に強姦された。一方、蕭拱も処女であった耶律弥勒が里帰りした際に彼女と関係を持ったことがあり、のちに耶律弥勒が非処女となったことを知った海陵王は蕭拱を殺害した。耶律弥勒の母の張氏も莘国夫人、伯母の蘭陵郡君蕭氏も鞏国夫人として海陵王の後宮に入れられている。完顔莎里古真は夫のもとからさらわれて、海陵王から深く寵愛されていたが、海陵王は完顔莎里古真の妹である完顔余都も犯した。完顔余都もすでに夫のある身であり、完顔莎里古真は「どうして私だけでなく妹まで手にかけるのですか」と海陵王を責めた。海陵王は「余都は容姿はそなたに及ばないが、肌の色がとても白かったので可愛がってやったのだ」と答えた。 昭妃蒲察阿里虎と蓬萊県主完顔重節は母娘であり、完顔重節が海陵王の側室とされると2人の関係は悪化した。また、修儀高氏は糺里(完顔秉徳の弟)の妻だったが、母である完顔氏とともに海陵王の後宮に入れられた。高氏の家のすべての女性が海陵王に奉仕する有様だったという。 宮女とされた辟懶は外に夫があったが、海陵王は県君に封じてこれを犯そうとした。だが、辟懶がすでに妊娠していたのを厭い、麝香水を飲ませ、自ら腹を揉むことで流産させようとした。辟懶は胎児の命を守ろうとし、「乳房はもちろんのこと身体中すべてを使ってご奉仕しますから、だから許してください」と哀願したが、海陵王は聞き入れず、ついに彼女を流産させて事に及んだ。 以上、『金史』の上述の巻によるが、海陵王が帝位を廃されたため、悪行が誇張して書かれている可能性には留意しなければならない。こうした海陵王のすさんだ後宮生活は後世の文学の題材となり、明末の口語小説集『醒世恒言』の一編に取り上げられている。
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