浦和レッズ創設期
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その後は三菱重工の人事部に戻りサッカー部副部長兼総監督。1988年、兄・健兒、木之本興三らとJSL活性化委員会(翌1989年、プロリーグ化検討委員会、のちのJリーグ)を設立。三菱重工社内のプロ化担当者としてサッカー部のプロ参加を嘆願、サッカー部の三菱自動車工業(以下、三菱自工)移管に関わる。重工は防衛庁や企業相手の仕事で、大衆にアピールするプロスポーツはやらないだろうと予想し、前々から内々にファンとの接点をつくりやすい自工移管を打診していた。社業としてドイツの事業所駐在が決定していたが三菱自工の清水泰男(のち浦和レッズ社長)の要請で1989年7月、三菱自工に転籍。サッカー部プロ化に対して、社内の反応は冷ややかだったといわれるが、サッカー部のプロ化、立ち上げの中心人物として東奔西走した。 1990年9月、浦和青年会議所が中心になって「浦和プロサッカー球団をつくろう会」が発足、浦和市はホンダの誘致が決定的だった。しかし同年10月、ホンダが浦和市の誘致を断わったため川淵三郎の仲介で「つくろう会」のメンバーと11月、西が丘サッカー場の近くのファミリーレストラン・すかいらーくで会う(森はそれ以前に浦和市の関係者と何度か接触はあった)。当初から浦和市はリストアップしていたが、浦和市はホンダで決定的だったため諦めていた。渡りに船のこの話に、この後は急ピッチに浦和レッドダイヤモンズ創設、Jリーグ入りが決定した。その後は仕事が山積み、会社との調整作業、及び1991年秋からJリーグ専務理事・兄健兒が主宰した「プロリーグ設立準備室」の選手委員会と選手委員会専門部会の合同委員会に参加するなど身を粉にした。更にスポンサー集めから、スタジアム改修の16億円以上の費用を自治体の政治家に掛け合う。昼は説明に回り、夜はその人たちと毎日会食。プロのクラブとは何か、誰も想像がつかない時代、みんなに応援される形を求め奔走した。会社に支援母体をつくろうと1991年にオフィシャルサポーターズクラブを組織、1992年度のクラブ数は615だったが、翌1993年には5178に増えた。その認定書一枚一枚に森は丁寧にサインをしていたという。森はチームが東京田町から移るはるか前に、自宅を浦和市に引っ越す等、森の人柄の良さから出世街道を歩んでいた藤口光紀(のち浦和レッズ社長)を始め、多くの人物がレッズ発足に参加した。森は自ら先頭に立って、Jリーグの理念である地元に密着したクラブ、チームづくりに心血を注いだ。清水泰男は「森ちんがいなかったら今のレッズはなかったと思います」と話しており、「今のレッズは森さんなくしてはあり得なかった」と昔を知る関係者の誰もが語っている。 1992年からレッズの監督に就任。観客を喜ばそうと 当時のクライフ監督率いるFCバルセロナが採用していた3-4-3の超攻撃的フォーメーションで挑み、1992年は天皇杯で準決勝まで進出した。しかし翌1993年にJリーグの公式戦が開幕すると、システムが相手に研究され尽くした事と補強の失敗、故障者続出でサントリーシリーズ、ニコスシリーズともに最下位となり、監督を辞任した。シーズン終了後の総括では「3年分は負けた」と語った。 ただ、森は、負けても愛された監督というよりは、負けが込むほど愛された監督であったと浦和フットボール通信は評し、「森さんのためなら叫ぶことができる」と浦和レッズのサポーターがコメントしていたと日刊スポーツなどが報じている。負けるほどにサポーターとの絆が強まる不思議な結果は、森の人柄が引き起こした現象であった。情の厚さが人を引きつけ、その美質は浦和レッズ発足前後にも遺憾なく発揮された。日刊スポーツや浦和フットボール通信などは、森についてレッズ初代監督としては成功したとは言い難いが、温かい人間味がファンを魅了し、熱狂的なサポーターを育てたと報じている。ぶぎん地域経済研究所(武蔵野銀行)は、浦和レッズが熱狂的サポーターを増やした原因について、開幕初年度に負け続けるレッズを「勝てない、とにかく勝てない」「いつ勝つのか」などと、日本人独特の判官びいきによる気質によってマスメディアが上位のチーム以上に取り上げたから。「出来の悪い子ほど可愛い」という状況となることでより愛されるチームとなった。もし5位や6位や、「ありきたりの成績」であったなら、あまり注目もされなかったであろう、等と論じている。
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