Jリーグ専務理事
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1990年、三菱重工の子会社で、宇宙ロケットの燃料を扱う日本液体水素という関連会社の社長に出向し、四年間にわたった名古屋との二重生活にピリオドを打ち東京に戻る。1993年のプロリーグのスタートへ向け、準備作業に引き出され1991年、Jリーグ専務理事に就任。川淵を補佐する管理本部の統括者となり、Jリーグホームタウン委員長、資格委員会(選手契約担当)委員長などの役職を兼ね、Jリーグ胎動期の実務の多くを取り仕切った。1991年に初年度からのJリーグ加盟団体を選定する際、清水エスパルスのホームスタジアム・静岡市清水日本平運動公園球技場日本平運動公園球技場の改修を要求した。特筆すべきは、映像及び著作権ビジネスに精通し、NHKをパートナーとして取り込んだ点。1993年4月NHKと民放各社と共同で「Jリーグ映像」を設立し代表取締役社長。これにより試合中継映像の品質を確保し放映権販売に寄与。また公式スポンサーの獲得や広告の質の向上などをもたらした。1993年4月、33年間勤務した三菱重工を退社しJリーグ専務理事に専任。1997年、福島県に開設された日本サッカー界初のナショナルトレーニングセンター「Jヴィレッジ」の総合企画、施設建設及び運営、事業性の確保など全般にわたり指導性を発揮した。1998年、日本サッカー協会専務理事、1999年、日本体育協会理事などの要職を務めたが、2000年のトルシエ解任騒動から川淵とギクシャクし始め2002年日韓ワールドカップ終了後に、サッカー協会専務理事、Jリーグ理事、日本体育協会理事を全て退任した。現在は日本サッカー協会特別顧問。何度となく起こった川淵降ろしに、反・川淵グループが対抗馬に担ぎ出そうとしたのがこの森だったが、川淵が余りに太くなった為、実現に至ることはなかった。
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