Jリーグ参加に至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 05:43 UTC 版)
「藤和不動産サッカー部」の記事における「Jリーグ参加に至る経緯」の解説
発足は栃木県。藤和不動産社長の藤田正明が、欧州や南米のようなプロクラブを目指し、那須高原の藤和那須リゾート内に施設を建設、クラブを発足させた。チームが急激に力を付けると、フジタグループ全体でサポートする事になり1975年後期から「フジタ工業クラブサッカー部」に名称変更、翌1976年から本拠地を東京に移した。那須は寒くて芝が育ちにくく、練習相手もなくチームとしてまとまりがなく、同時に練習場を神奈川県平塚市に変更した。平塚ではいくらでも練習試合が組めた。 しかしこの事が、かえって当初の目標からは離れてしまったともいわれる。JSLにいながら、常にプロ化へのプレッシャーをかけ続けた読売サッカークラブとはこの点では違うかも知れない。1990年前後にはチーム力がやや落ちたが、藤田正明の後を継いだ正明の甥・藤田一憲も、とてもサッカー好きだったこともあって、Jリーグ創設に際しては参加を強く希望し候補の一つとなった。 しかしJリーグ参加の大きな条件にフランチャイズ制があったため、関東に候補チームが集中し、東京にチームを置くフジタには不利となった。当確といわれたマツダが降りると言った時、川淵三郎が「(会社発祥の地でもある)広島でやってくれるなら無条件で参加を認める」と打診したが、「もう関東の会社なので」と拒否。さらに浦和市に本拠地を置いてやると決まりかけていた本田技研が降りた時も、三菱自工に先を越されたといわれる。 結局、平塚市北部大神に練習グラウンドを持っていた繋がりで平塚市を本拠地にしたが、オリジナル10には選に漏れた。川淵から説明された落選理由は「鹿島が屋根付きサッカー専用スタジアムをつくるというので鹿島を選んだ。また平塚市で盛り上がりが見られないこと、そしてフジタ(ベルマーレ)を入れると神奈川が4チームとなってしまう」というものだった。
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