浅野昼夜銀行
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1918年(大正7年)3月には、浅野昼夜銀行に改称して本店を日本橋区通一丁目に移転したが、同年7月の浅野財閥の持株比率は88%だった。1920年(大正9年)には、さらに資本金を千万円に増資して2月に浅野総一郎が頭取に就任したが、この頃が銀行の利益のピークだった。一次大戦が終ったせいで同年3月に反動恐慌が起きて、預金が2000万円から1210万円に減少し、保有する有価証券(浅野財閥各社の株式)が暴落し、貸付金が不良債権になり、浅野財閥の諸会社への救済融資が増加して固定化し、銀行の資金も枯渇して経営が急迫した。同年に赤坂・亀戸・浅草・神田・芝に支店を開設して預金を増やしたが、12月に銀行恐慌に巻き込まれて小規模な取付騒ぎにあったので、安田銀行(安田財閥)から300万円の資金援助を受けた。 第一次世界大戦中の好景気の時期に浅野財閥各社は高収益をあげたのだが、それより大きな資金を、浅野総一郎は会社新設や買収に費やした。すなわち沖電気・東京湾埋立・浅野昼夜貯蓄銀行・浅野昼夜銀行・浅野スレート・大日本鉱業・浅野造船所・大島製鋼所・富士製鋼・浅野物産・浅野同族・浅野小倉製鋼・関東水力電気・神奈川コークス・庄川水力電気・北秋木材・鶴見木工・日本鋳造・信越木材・日本カーリット・京浜運河・内外石油の合計22社である。浅野昼夜銀行が、このように大規模な事業拡張資金の需要を満たすことは本来は不可能だが、浅野総一郎は銀行の経営状態などお構いなしに、ただひたすら事業を拡大した。 1921年(大正10年)5月に安田善次郎(安田財閥総帥)が浅野昼夜銀行を引き取ると約束して、同年9月19日と20日に安田財閥の斎藤恂たちに日本昼夜銀行本店を調査させてから調印の日取りを決めたが(橋本梅太郎と金子喜代太が60日間毎日大磯の安田善次郎を訪問して懇願した結果、ようやく9月27日に引取りを受諾してもらったとの伝も在る。)、その9月29日の調印の前日に安田善次郎が暗殺されたので白紙に戻った。そこで浅野財閥は独力で銀行経営を改善するために、同年中に大阪支店、京都支店、青梅出張所(青梅には浅野セメントの採掘所があった。)を設置して預金を約200万円も増やすが、貸付金はそれ以上に増加して、借入金・コールマネー・再割引手形の合計額が増加した。 この頃に浅野昼夜銀行は破綻寸前だったが、浅野同族会社や浅野財閥全体も苦境にあったので、浅野総一郎は銀行より浅野同族(浅野財閥の本社)の資金繰りを優先して橋本梅太郎と金子喜代太を浅野昼夜銀行に送り込んだが、永島二郎専務は銀行を守ろうとして、浅野総一郎には秘密にして常に50万円ぐらいの準備金を用意していた。1922年(大正11年)5月8日に浅野造船所が不況のせいで解雇する職工1600人以上に約466,000円を支払うことになったが、それが新聞で詳しく報道されたために、浅野昼夜銀行で取付騒ぎが起きて預金が激減し、5月8日に支払う解雇金が不足して浅野昼夜銀行は危機的状況に陥ったが、辛うじて資金を調達することが出来た。これがきっかけで、浅野財閥は安田財閥と日本銀行に、浅野昼夜銀行を徹底的に救済してくれるように懇願した。
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