河川行政への警鐘~蜂の巣城紛争~
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「筑後川」の記事における「河川行政への警鐘~蜂の巣城紛争~」の解説
筑後川では治水・利水のための多くのダムが建設されたが、一方で早くから公共事業の進め方に対する問題が浮き彫りとなった。その代表が松原ダム・下筌ダム建設に伴う「蜂の巣城紛争」である。 1957年(昭和32年)よりダム建設は計画されたが、九州地方建設局の住民説明会で生活再建策が何も説明されなかったことに住民が反発、翌年には室原知幸を中心に「絶対反対決議」が為され、建設省に対する徹底抗戦の意思表示として下筌ダムサイト地点に「蜂の巣城」を建設、籠城した。 この間強制執行に対する流血事件や建設差し止めの行政訴訟など、公共事業と基本的人権(憲法第29条財産権)の侵害という問題を室原は行政に突きつけ続けた。蜂の巣城は1964年に落城したものの、室原の抵抗は彼が亡くなる1970年(昭和45年)まで続いた。 だが、この紛争は水没地域の救済制度や河川総合開発事業の不備を行政に認めさせた点で大きなきっかけであった。室原没後の1973年、水没地域の計画的な産業基盤整備・振興を行って地域住民の生活安定・福祉向上を図る目的で「水源地域対策特別措置法」(水特法)が施行され、河川法・土地収用法・特定多目的ダム法の改正も同時に行われた。 13年に亘る蜂の巣城紛争は、河川行政が開発優先から地域との共生へ視点を転換した曲がり角であり、以後のダム建設に多大なる影響を与えた。 室原の「公共事業は理にかない、法にかない、情にかなわなければならない」という言葉は、現在でも補償交渉の基礎として生き続けており、1990年代以降の公共事業見直しはこの延長線上にある。 筑後川でも玖珠川最上流部に建設予定だった猪牟田ダムが建設中止となった。 また「北部九州水資源開発マスタープラン」で計画されていた杖立ダムや玖珠川ダム、日向野ダムなどは計画倒れに終わった。 現在では城原川に計画されている城原川ダムについて、地元が賛成派と反対派に分裂し収拾のつかない状態になっている。平成の大合併で誕生した神埼市市長選挙でも争点となり、誕生した新市長はダム賛成の態度を取っている。 また古川康佐賀県知事は穴あきダム方式でのダム建設を事業者である国土交通省に提唱、これをうけて国土交通省は城原川ダムを多目的ダムから治水ダムへ変更した。 しかし1979年(昭和54年)の計画発表から既に29年経過している。また巨瀬川に建設中の藤波ダムも住民の反対が激しく、2009年(平成21年)の完成まで39年を要した。
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